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外岡秀俊 3.11後の世界

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help RSS  「世界」 福島 不安の地を歩く

<<   作成日時 : 2011/09/08 11:36   >>

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 2011年9月8日(木)記

 いろいろな事情から、しばらく更新できずにきてしまった。

 先月発売された雑誌「世界」9月号に、「ルポ 福島 不安の地を歩く」という拙文が掲載された。お読みくださった方もいらっしゃると思うが、次号が発売になる時期なので、岩波書店編集部のお許しをえて、転載させていただくことにした。



    「ルポ 福島 不安の地を歩く」


 「おたくは、いくつでした?」

 「庭で〇・八、玄関先が〇・七です」

 「お子さんの学校は?」

 「それが、三を超えるときもありまして」

 「ご心配でしょうね」

 福島市や郡山市では、初対面同士の人々の間で、こんな挨拶が交わされる。数値は、放射線量計で測った毎時のマイクロ・シーベルトだ。まるで気温や湿度を話題にするように事もなげだが、わずかの数値の差にも鋭敏に反応する、その表情は真剣だ。

 政府・行政の後追い発表に対する不信と、低線量被曝への不安。炎天下の福島を覆う空気をひとことでいえば、そうなるだろう。

 人々は自宅の庭や玄関先、居間や台所で小まめに放射線量を測り、とりわけ線量の高い枯れ草や芝生を掘り起こし、雨樋を高圧洗浄機で押し流す。しかし不安は消えない。三月一五日をピークとする大気中への放射性物質の放出で、どれだけ被曝したのか、わからないからだ。さらに今後は、体内被曝も気がかりだ。

 行政によって、学者によって、低線量被曝の危険性に対する見解はまちまちだ。だれを信じてよいのか、どの言葉に根拠があるのか、人々は疑心暗鬼にかられている。

 郡山市西部に住む四〇歳代前半の主婦に話を聞いた。小学校六年の長女、二年の長男は登校しており、四歳の次女、二歳の次男が足元にまつわって無心に遊んでいる。

 「長女のクラスで一人、長男のクラスで二人が六月に転校しました。長男のほうは、一人が旦那さんが仕事を辞めて一家で北海道へ。もう一人は、旦那が残って、奥さんと子ども、親御さんの三人で富山に。親戚がいるわけじゃないそうです。すごいなあ、って思います。避難したほうがいいってわかっていても、行けません。うち、農家ですから」

 その日は午前中に、生協の仲間で山形に避難する母親の送別会を開いた。地区の生協仲間一〇人のうち、すでに脱出した人は三人。これから疎開する、夏休みを終えたらそのまま戻ってこない、という人の噂が絶えない。

 「多くの人は、行きたくても行けないのが現実。ローンを抱えていたり、二重生活をするゆとりがなかったり。仲間がいるから、がんばろうね、って話しています」

 今でも悔やまれてならないのは、震災から一週間、大気中に放射性物質が放出されたときに、無防備でいたことだ。断水したため給水の列に並んだり、食料品を求めて何時間も列に連なる母親が多かった。春休みだったので、多くは子どもを連れていた。「あのとき、どれだけ被曝させてしまったのか」。そういって、泣き崩れる友人がいる。

 私が話を聞いた主婦は、水道が使えたので、列には並ばなかった。一か月は子どもを屋外に出さなかった。それでも、油断していた。あのとき、子どもを外に出さなかったら。あのとき、子どもを買い物に連れていなかったら。一つひとつの回想の場面が、痛いほどの悔恨を引きつれてよみがえる。

 地域で、結婚を間近にした女性が、破談になったという話を聞いた。「大丈夫。こうなれば、結婚も、地産地消でいくかあ」。生協仲間とそういって大笑いしたが、二〇年、三〇年先を思うと、危惧は去らない。六年生の長女にだけは二人だけで向き合って話した。

 「避難した子もいるけれど、あなたはどうしたい? もしかすると、将来子どもを産めなくなるかもしれないのよ」

 「いいよ。お友達がいる限りここに残る」

 長女はそう答えた。親として、これがベストの選択か、正しい決断かはわからない。でも、間違ってはいないと思う。

 「放射性セシウムっていう物質の半分が壊れるのは、三〇年後なんだって。もしかすると、うちの畑、三〇年は使えなくなるかもしれない」

 そう話すと、長男は笑って、「大丈夫だよ。そのころぼくは、メジャー・リーグで活躍してるから」といった。思わず笑いに釣り込まれながら、母親の心を不安が掠めた。もしほんとうに大リーグで活躍していたとして、あるとき原因もわからず体調を崩し、「ひょっとして……」と、二〇一一年三月一一日のあの日を思い起こす日が、来ないかしら。



       「後だし」と同心円


 震災後四か月もたって、福島にこれだけの混乱をもたらしたものは、何だろうか。それを防ぐことはできなかったのだろうか。

 答えははっきりしている。「too little too late」(少なすぎて、遅すぎる)という政府・東京電力による情報の後追い開示の結果であり、同心円による機械的な避難指示の破綻である。

 福島第一原発の事故について、経済産業省原子力安全・保安院と原子力安全委員会が、事故評価尺度でチェルノブイリ級の最悪レベル7に引き上げたのは、震災から一か月も過ぎた四月一二日のことだった。事故直後には、暫定評価でレベル4としていたが、一八日にレベル5に修正し、海外から疑念の目で見られた挙句の再修正だった。

 問題はそれだけではない。原子力安全委員会は四月二五日、緊急時迅速放射能影響予測システム(SPEEDI)の結果をもとに、放射性物質の一時間ごとの拡散予測を公表すると発表した。これは八五年から運用してきたシステムで、原発の煙突に敷設した測定器の数値に、風向きや地形などのデータを加えて、住民の避難に役立てることになっていた。ところがその結果は三月二三日と四月一一日の二回しか公開されず、年間七億八〇〇〇万円の維持費をかけるシステムは、実際の避難にはまったく活かされなかった。

 さらに五月二日になって細野豪志首相補佐官(当時)は、原子力安全委員会、文部科学省、保安院などがSPEEDIをもとに作成した拡散予測のうち、五〇〇〇件が公表されていなかったことを明らかにした。前日までデータの存在を知らなかったという細野氏は、公開しなかったことについて、「すべて公開することで国民がパニックになることを懸念した。きちんと開示すべきだった」と語ったという。

 こうしたデータが公表されていれば、三月一五日の放射性物質の放出によって、風が西方に流れ、福島県の中通りにある福島市、郡山市などに影響が及ぶことは住民にも早くからわかっていたはずだ。原発立地町から避難を続けた住民も、汚染地域を避けるか、むしろ屋内で退避し、不要の被曝を避けられた可能性が高い。

 ところが政府は、機械的な同心円によって避難を指示し、「too little too late」という逐次拡大を続けた。
 

三月一一日 保安院が福島第一原発から半径二キロの住人に避難を指示

三月一二日 総理大臣が半径一〇キロ圏内の避難を指示。一号機の水素爆発後、半径二〇キロ圏内に避難指示を拡大

三月一五日 半径二〇〜三〇キロ圏内の屋内退避を指示

四月二二日 政府が半径二〇キロ圏内を立ち入り禁止の「警戒区域」、二〇〜三〇キロ圏内を「緊急時避難準備区域」、二〇キロ圏外であっても、年間累積放射線量が二〇ミリシーベルトを超えそうな飯舘村などを「計画的避難区域」に指定

六月一六日 政府が、年間累積放射線量が高い伊達市などの一部地点を「特定避難勧奨地点」に指定
 

 これをみれば、政府の対応がいかに後手に回り、しかも杓子定規な線引きが、いかに住民に重い負担を強いたかが予測できる。それぞれの地域を見てみよう。



          警戒区域

 福島第一、第二原発の地元である浪江、双葉、大熊、富岡の立地四町は、ほとんどがこの区域に入り、全員避難を余儀なくされた。

 県西部にある猪苗代町のリゾートホテル「リステル猪苗代」には、双葉町から避難した約七八〇人が暮らしている。双葉町役場は、町民多数を率いて、さいたま市に避難し、三月末には埼玉県加須市の高校に再移転したが、県内に残る町民の多くは、リステルで暮らしている。四月四日にいち早く入居し、町民を受け入れてきた双葉町避難所自治会の天野正篤会長(七三)がいう。

 「三月一二日朝七時に、防災無線で『すぐ避難します。川俣町に行きます』という放送があった。持病の薬と金を持ち出すのが精一杯でした」

 一三日午後、一緒に避難した町民の中で、薬がない人が目立って多かった。患者六〇人をバスでピストン輸送し、病院で薬を処方してもらった。一五日に町民と別れ、妻の実家のある猪苗代町に身を寄せることになったが、別れ際、お年寄りから「どうか一緒にいて」と懇願され、「おばあちゃん、逃げるわけじゃない。見捨てないから」と答えた。その約束通り、かつて仕事で付き合いのあったリステルで、町民のお世話をしてきた。

 リステルは、スキー場の麓に建つ豪華ホテルである。体育館など他の避難所に比べれば、一見、優雅な暮らしに映るかもしれない。だが実態は違う。着の身着のままで逃げ出した町民にとって、しょせんは仮の宿でしかない。これから町民は福島市に二か所、郡山市に三か所、いわき市、会津若松市、白河市、猪苗代町にできる仮設住宅に分散して暮らすことになる。体の不自由なお年寄り、障害者はだれがお世話をするのか。そもそも、仕事は見つかるのか。だれもが不透明な未来を不安な面持ちでみつめている。

 「小さな寂しさは口にできるが、こんなに大きな悲しさになると、みんな口をつぐむ。皆さんには、とにかく互いに声を掛け合おう、と呼びかけてきた」。そういう天野氏とホテル内を歩くと、すれ違う人々の大半が、元気に挨拶を返してくる。だが仮設で散り散りになれば、かりそめのコミュニティは消え、人々は再び口をつぐむのではないか。

 菅直人首相は七月九日、福島第一原発事故の処理について、「三年、五年、一〇年、いや最終的には数十年単位の処理の時間がかかる見通しになっている」と語った。つまりそれは数十年、双葉町民が、町に帰れないと宣告したのも同じだ。少なくとも天野氏はそう受けとめた。「それまで、補償は続かないだろう。町への復帰を目指すのか、断念して別の土地で再起するのか。いずれ決断を迫られる日がくる」。そう天野氏は覚悟している。

 いわき市で、富岡町から避難してきた自営業の安藤正純さん(五六)に会った。

 「今こそ『朝まで生テレビ』で、東電や政府と直接対決させてほしい」という。震災後、原発立地の首長の発言が紹介され、政府や東電の記者会見も頻々と開かれたが、そのどこにも、住民の声は反映されていない。マスコミは、住民を登場させ、東電の責任者と直接、渡り合う場を設けてほしい、という。

 地元紙の福島民報は七月一五日付けの一面トップで、政府が緊急時避難準備区域を八月中にも解除することを検討している、と報じた。五月段階で政府は、原発の「冷温停止」を解除の条件にしていたはずだ。それがいつの間にか、「原子炉の安定的な冷却」があれば、解除をしてもいい、と条件をすりかえたかに見える。次々と原則を変える姿勢に、安藤さんは不信の眼を向ける。

 「放射線量がいくらの数値以下になったら帰れる、などというのは幻想だ。まずどんな環境になったら戻れるのか、国は条件を提示すべきだ。冷温停止は当たり前。米を作れるのか、野菜は食べられるのか。近海魚は安全か。井戸水は? 水道水でミルクを溶かして赤ん坊に飲ませても大丈夫か? そこまでの条件を満たさなければ、帰還などありえない」

 安藤さんは今年三月まで六年間、「福島県原子力発電所所在町情報会議」の委員を務めた。立地四町から各五人ずつの委員、それに東電福島第一、第二原発の所長と学識経験者が参加して、原発について話し合う。だが情報の隠蔽や閉鎖体質は、少しも変わらなかった。

 「文科省は、学校で受ける放射線量の限度を、国際放射線防護委員会(ICRP)勧告の年間一ミリシーベルトから、年間二〇ミリシーベルトにまで引き上げ、父母の抗議を受けると、また年間一ミリシーベルト以下を目標にする、と修正した。そんなふうにクルクル変わる数値を、あてにできますか?」



         緊急時避難準備区域

 福島第一原発から二〇〜三〇キロ圏内は、当初は屋内退避を指示され、のちに「緊急時避難準備区域」になった。南相馬市では、合併前の旧原町市が、すっぽりこの区域に入った。名称はわかりづらいが、要するに、「いざという緊急時に備え、いつでも避難できるように準備をしておく」よう求められた地域である。

 南相馬市では、震災後の避難で、七万一〇〇〇人の人口が一万五〇〇〇人近くまで急減し、今は三万五〇〇〇人にまで回復した。しかし、この地域では、小中学校は開校できない。警戒区域から避難し、緊急時避難準備区域に住んでいる児童生徒約二〇〇〇人は、毎朝夕スクールバスに乗って、全市の一六%の生徒数しかいなかった三〇キロ圏外の鹿島区の学校に、通っているのである。親の都合などで、実際には町に住んでいるのに、学校は開けない。子供達は炎暑のなか、体育館を仕切った教室で寿司詰めになって授業を受けている。

 緊急時避難準備区域では、特別養護老人ホームも閉鎖するよう指示された。震災後、県内外のホームに疎開したお年寄りは、今も散り散りのままだ。

 同市原町区にある定員七〇人の特別養護老人ホーム「長寿荘」の施設長、中川正勝さん(六八)がいう。「現在五五人が在籍していますが、うちご自宅にいるのは四人。県内の他施設に四人が避難し、四七人は栃木県の一三施設に分かれています」。収入が途絶えたため、長寿荘では六三人いた職員が四九人まで減った。四月分は職員、パートに本俸を支給したが、今は四人を除き、雇用保険に頼っている。

 病院も、国からの指示で当初は外来に限り、入院患者は受けつけていなかった。南相馬市には震災前、合併で二つの市立病院が並立していた。このうち警戒区域になった小高区の市立病院から患者九九人が、原町区の市総合病院に避難した。いったんは受け入れたものの、屋内退避の指示があったため、二〇日までに全入院患者を転院させた。四月二日から外科、内科で外来患者の受付を始めたが、一日の平均患者数は百人前後。開店休業状態のため、一二人の常勤医師のうち八人が退職し、二〇〇人いた看護師も五〇数人にまで減った。

 南相馬の鈴木昌一市議は六月二〇日の市議会定例会で、この病院問題について一般質問し、入院規制の解除を訴えた。これについて福島県は二一日、一部解除の方針を伝え、二〇五床の入院再開を認めた。

 しかし現実には、「一部の外来患者について、緊急入院が必要な場合に限って受け入れているのが現状」だと、鈴木市議はいう。いったん流出して他の病院に転職した医師や看護師を呼び戻すのは簡単ではなく、給食を提供していた業者にも断られた。最近は、市内の民間病院に残った数少ない医師を市総合病院が引き抜くなど、内輪の軋みも表面化しつつある。

 「震災前は、ただでさえ医療過疎が進み、一病院完結型の医療は成り立たないといわれていた。病院が連携し、地域全体でいかに効率よく医療を提供するか、ようやく関係者が協力する機運が生まれていました。このままでは、南相馬の地域医療は崩壊します」

 市の人口は半分しか戻らず、経済規模はどんどん縮小している。南相馬市の中心部は、福島市や郡山市よりも放射線量が低い。しかし、いったん線引きした「緊急時避難準備区域」の鉄枠は容易には外れず、市民の暮らしは、縮小均衡に向かう悪循環が続いている。



        計画的避難区域

 七月一八日に、飯舘村を訪ねた。四月二二日に「計画的避難区域」に指定され、約一か月をかけて全村が県内の近隣自治体に避難した。広大な緑野が続く村は、かつては六二一一人が暮らす長閑な田園地帯だった。

 集落を行くと、雑貨店もガソリン・スタンドも理髪店も、かつての日常生活をそのままにとどめて、人の気配だけが絶えている。まるで、時間が停止し、人だけが消えてしまったかのようだ。村役場には毎日、数人の職員が通って、受付業務にあたっている。

 全村が避難を控えた五月上旬、菅野典雄村長に話を聞いた。

 「危機管理の常道は、はじめに広い範囲に網をかけ、少しずつ狭めていくことだ。そうすれば、不安は次第に和らぎ、人々は安心する。政府のやり方は逆だ。時間を追って避難区域を広げ、どんどん不安を掻き立てる。まったく危機管理ができていない」

 後から避難を指示されたため、避難先の住宅を確保するのは困難を極めた。だが、国や政府が示す遠方への避難は、頑として断った。今まで車で二〇分通勤の村民は、一時間二〇分の距離なら、まだ通うことができる。安全を考慮するだけでなく、これまでの生活を確保することが、長い避難生活には欠かせない、と考えたからだ。

 「安全と安心のバランスをどうとっていくのか。それが肝心な点なのです。安全だけを考え、暮らしが崩れるリスクを考えなければ、避難生活で村は壊れてしまう。暮らしを守ろうとする私を、『殺人者』とか、『人間をモルモットにするのか』と非難する人もいたが、私は村民のことを最優先に考えてきました」

 菅野村長は、村役場の近くにある特別養護老人ホーム「いいたてホーム」を残すよう国に掛け合い、認められた。高齢の入所者をよそに移せば、それまでの暮らしの平穏が破られ、かえってリスクは高まる。約一〇〇人の職員も毎日通勤しながら、雇用を維持することができる。さらに、村民をパトロール要員として雇用し、毎日村を見回ることも国に認めさせた。立ち入り規制のない「計画的避難区域」では車の出入りは自由で、空き巣などの心配があるからだ。

 「今一番いいたいことは、そこに住んでいる人々にこそ知恵があり、思いがあり、愛着がある、ということです。補償金など、限度なく続くものではない。いかに土壌を改善して、村に戻るようにするか。たとえば年間累積放射線量を二〇ミリシーベルト以下と設定して、計画的避難区域を解除するなど、目標数値を示してほしい。そうすれば、具体的な計画が立てられる。国がやらないのであれば、私たちがやる」



           特定避難勧奨地点

 福島市の東方に隣接する人口六万六〇〇〇人の伊達市では、七月になって霊山町上小国や下小国など四か所、一〇四地点の一一三世帯が、「特定避難勧奨地点」に指定された。これは年間放射線量が二〇ミリシーベルトを超す恐れがある場所を、住居単位で指定し、自治体が避難を支援する仕組みだ。

 伊達市市民協働課の半沢信光副主幹によると、六月一一、一二日、国が派遣した一〇〇組以上のグループが、一軒ごとの庭と玄関先の放射線量を測定調査した。線量が高い住居と、その近傍で小学生のいる住居が、対象になったという。伊達市では、市営住宅約四〇戸を避難先にし、残りは借り上げ住宅で対応する。

 しかし、考えてみれば、年間放射線量二〇ミリシーベルトは、先にみた「計画的避難区域」の指定基準と同じである。なぜ飯舘村では全村が避難し、伊達市では個別の世帯に避難を「勧奨」したのか。測定の精度をあげ、避難する必要のない住民に選択の余地を残すことはいいことかもしれない。しかし、裏を返せば、避難対象者をできるだけ少なくし、「支援」にとどめて補償を減らそうという狙いも、こめられているのかもしれない。

 実際、避難勧奨地点から外れた人にも、動揺は広がっている。霊山町下小国に住む三〇歳代後半の母親に話を聞いた。

 調査の結果、自宅は庭が一・九、玄関先が〇・九毎時マイクロ・シーベルトだった。近くの小国小学校に通う一二歳の長男、九歳の長女が暮らす部屋はそれぞれ〇・七。

 「震災後、テレビでも安全だといっていたし、まさか放射線がここまでは来ないだろうと思っていました。でも主人がネットで調べていたら、早くから外国メディアは原発がメルトダウンし、アメリカも半径八〇キロ圏内が危ない、と警告していた。危険なら危険といってくれたら、逃げていたんです」

 五七人が通う小国小では、二〇人の家が避難勧奨地点に指定された。親しい友人は打ち明けてくれたが、だれが指定されたか、聞くのはためらわれる。上小国、下小国地区の親たちは、乗用車で毎日、子どもを送迎していたが、七月一三日から、市がスクールバスで送迎するようになった。

 「子どもは春からずっと屋内で過ごし、屋外に出るときは長袖、マスク、帽子をつけています。一番心配なのは、あの放射線が高い三月に、子どもがどれほど被曝したかわからないことなんです。できれば、給食もやめさせたい。安心したくても、できないんです。同じ空気を吸っているのに、特定の人しか助けないというのはおかしい。苦労して耐えてきたんだから、皆を助けてほしいんです」

 母親は、仲間と語らって、地域全員の避難を自治体が支援するよう署名を集め、伊達市に提出した。
 「政府は、『ただちに健康への影響はない』と言い続けましたよね。マスコミもそう繰り返した。でも、絶対に影響があるとはいえないけど、絶対にないという保証もない。あんなに騒いで、何もなくて良かったね。そう後で振り返るほうがいいんです。何の保証もなく、将来何かあったら、だれが責任をとるのでしょう」

 上小国に住む元消防署長の佐藤春雄さん(六五)宅も、指定から外れた。玄関先は一・五、庭は二・七と高かったが、近隣の七世帯はいずれも指定されなかった。「政府はモニタリングをしていたはずなのに、公表があまりに遅い。命にかかわる問題を、もっと迅速に対応できなかったか」

 そういう夫に、妻キヌ子さん(六〇)が付け加える。

 「まったく、一番放射線が高いときに知らされないで、ねえ」

 もっとも、子どもがいる世帯は、自治体が移転先の家賃を支払うので、指定されてよかったと思う半面、長年地元に暮らす高齢者は、指定されなくてよかった、と受けとめる人が多いという。

 「私も小国小学校出身だが、当時は一クラスに三五人の子どもがいた。今は高齢化が進み、年寄りばかりだ。もし計画的避難区域に指定されたら、町は廃墟になる。若い人は、半年避難したら、そちらが生活の場になってしまうだろうから。私は、自宅が避難勧奨地点に指定されても、残るつもりでいた」

 庭の表土を掘り起こし、高圧洗浄機を買って雨樋を流し、放射性セシウムを吸着するゼオライトで浄化した。栽培するトウモロコシと枝豆は、刈り取っておくしかない。

 丹治千代子市議によると、伊達市では早くから放射線被曝を心配する市民が動きだし、議会や市役所が、国や県に先駆けて対策に乗り出した。乳幼児、妊婦、小中高生の全員と希望者に、累積被曝線量を計測するガラスバッジを配布することを決め、八〇〇〇個以上を八月から配布する。市の専決処分によって、保育園や小中高校すべてにエアコンを設置することも決めた。今は「全市除染プロジェクト」を進め、まず専門家がモデル学校と住宅の一部を除染して検証し、その後は行政・市民が協働で、市の建物や農地、山林を大規模除染していくという。丹治市議はいう。

 「伊達のすぐお隣りが福島市。福島市東部の線量の高さは、こことそう違いません。いずれ、福島市や郡山市でも、伊達市と同じ問題が起きるのではないでしょうか」



       静かなパニック

 郡山市を拠点に活動を続けてきた生活協同組合「あいコープふくしま」は七月一一日に開いた第二五回総大会の議案書に、「この地に残って暮らすしかない」という表題をつけた。

 あいコープは、震災前からくすぶる景気低迷や雇用不安の影響で事業が足踏み状態だったが、原発震災による県外避難が相次ぎ、組合員の一割にあたる三〇〇人が脱退した。

 議案書は、震災後の福島の現状をこう表現している。「放射線は、まさに、目に見えない『大津波とガレキ』であり、二〇〇万県民は現在もその渦に引き込まれています。しかも、事故の収束が全く見えないゆえに、不安と恐怖はいっそう加速し、放射能のダメージを受けやすい乳幼児、子どもを守らなければという気持ちが静かなパニックとなって広がりました」。

 福島は奥羽山脈、阿武隈山地を境に、東から浜通り、中通り、会津の三地域に分かれる。うち、人口が集中しているのは中通りの一二〇万人で、福島と郡山の各三〇万人が二大商圏をなしている。浜通りで始まった「静かなパニック」が中通りに波及すれば、福島県の暮らしの根幹が揺らぐ。

 あいコープ理事の渡部由次理事はいう。

 「日本の行政はすべて、独立機関がチェックできないという問題を抱えている。原発事故後、すべての情報や対策は東電が握り、保安院や原子力安全委員会はノー・チェックだ。国会も自治体の議会も、機能していない」

 では、どうしたらよいのか。「避難したくてもできない人が圧倒的に多い。いかに汚染されても、内部被曝を避けながら、この地に残って暮らすしかない」と渡部氏はいう。

 あいコープは三つの立場を明確にした。

 �事故は一般的な「人災」では片付けられない東電の利益優先の企業体質が原因。同時に、原発を国策として推進してきた政府—原子力委員会の責務と最終責任を明確にした上で、復旧・補償を求める。

 �政府・東電に以下の項目を要求する。

 ア 放射線汚染を拡大させないための監視、管理、情報公開。とりわけ子どもの安全、内部被曝の管理をするた    め、国の負担による県民健康検査と手帳の作成を求める。
 イ 避難生活者の生活と心の傷への補償。元の生活に戻れるよう求める。
 ウ 一時補償にとどまらず、農業・漁業ができる土地と海への回復まで責任をもつよう求める。
 
 � 二度と原発事故を発生させず、最初で最後の事故にすることを全国と世界に発信する義務と責任がある。
 こうしてあいコープは、全原発の安全基準の見直しと改修、三〇年を超える原発のすみやかな休止と廃炉への準備を求め、「脱原発」を明確にした。

 その一方、おざなりなチェックで汚染が拡大する福島の現状に対しては、生産者と消費者の連携で自衛し、立ち向かうしかない。「残るしかない、という地点から、個々の闘いを始めるしかないでしょう」と、佐藤孝之理事長はいう。

 事故後の放射線の大気中への放出で、県民は三か月に三〜五ミリシーベルトの積算放射線量を浴びた。これからは、内部被曝をどう最小化するかが最大の課題だ。野菜などを出荷する場合は一キログラムあたり五〇〇ベクレル以下にするという国の暫定基準値は、すでに被曝した県民にとっては、高すぎる。

 組合の生産者からは、表土を五センチ削って汚染土を集約し、そこにヒマワリを植えて土壌中のセシウムを回収する方法が提案され、組合員が一万本のヒマワリを植える運動を始めた。ゲルマニウム半導体検出器で農産物のサンプリング調査をし、その近似値から、生産者が簡易測定器で野菜などを調べ、荷受け段階で二重チェックする活動も始めた。

 あいコープでは、内部被曝を避けたいという組合員の声に応え、西日本産の野菜一週間セットを配布したところ、通常の二〇倍にあたる約八〇〇セットの申し込みがあった。「地元生産者を見捨てるのか」という声もあるが、すでに外部被曝をしている福島県民には、今年に限って、内部被曝を減らす手立てを提供したい、という。



       フクシマ特別措置法を

 こうして警戒区域から緊急時避難準備区域、計画的避難区域、特定避難勧奨地点、いずれにも含まれていない中通りの現状を報告してきたが、改めて気がつくのは、原発事故と震災が複合した福島県の態様の複雑さだ。

 日本では、大災害については災害救助法、原発事故については原子力損害賠償法の二本の法律があるが、福島県で起きていることに、既存の法体系で対応することは難しい。後者については与野党が合意し、八月には原子力損害賠償支援機構法案と、国が東電に代わって賠償額の半分を被害者に仮払いする法案が成立する見込みだが、これは賠償のスキームと支払いの早期化を目指す修正であり、根本的な解決にはなっていない。

 欠けているのは、元住んでいた土地への復帰を支え、促進するための枠組みである。

 災害救助法は、市町村を基礎単位として、避難所の運営、被災者への物資供与、応急仮設住宅を設置することをうたっている。阪神大震災の教訓でうまれた被災者生活再建支援法により、自力再建については全壊世帯に三〇〇万円の支援をするスキームもできた。

 しかし、避難所—応急仮設住宅—復興住宅という既存の災害救助の枠組みでは、福島の避難住民を支えることはできない。なぜなら、警戒区域の住民は、数十年にわたって「復興住宅」を建てる地を奪われるかもしれないからだ。

 住民は県内外の避難所から、各地の応急仮設住宅に移ろうとしているが、四散する住民の暮らしや医療、福祉を支える行政単位そのものが、避難によって機能を低下させ、十分なサービスを施せないのが現状だ。

 戻るべき土地がないまま、避難住民を仮設住宅に追いやれば、いずれ人々が孤立し、展望を失って疲弊することは目にみえている。このままでいけば、後世の歴史家が、当時の政府を「棄民政策をとった」と認定しても、おかしくはない。

 汚染された土壌の改善や、内部被曝の防止はもちろん、元の土地に復帰できない間の避難住民の生活・行政の支援、もし数十年にわたって帰還できない場合には、それに代わる地でどうやって町を再生するのか、そのビジョンを示す措置法が必要だ。

 フクシマ特別措置法は、福島県民にだけ必要というわけではない。人災によって、大規模な被害が生じた場合、この国は人々の暮らしをどう支えようとするのか。国民すべてにとって切実な、その基本姿勢を占う試金石となるからだ。


 写真はゼオライトで放射性セシウムを吸着させる佐藤春雄さん=伊達市上小国で

 





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