国は何を知っているんだろうか――4/27公開質疑の感想/山崎久隆

 4月27日(水)、原子力安全委員会や保安院などの担当者を呼び、国会議員と市民による「福島原発事故に関する公開質疑~事態の見通しと対応策」が開かれました。詳細報告はやりとりの分析を経て後ほど行うこととし、とりあえずの感想などを書きます。

 結局は手探りなのだという実態が一つは見えました。心底恐ろしいことです。

 保安院の前川防災課長が「本当に分からない」という言葉をなんども繰り返しました。特に深刻なのは、1号機に水を入れ続け、図らずも格納容器内で「水の棺桶」=「水棺」状態になっていることに対し、原子炉建屋が重量に耐えられるのか、放射性物質の放出が無いのかという問いに対し「答え」がないのです。普通、そんなことを前提にして格納容器は設計されていませんから、水圧、重量、あるいは余震の揺れなどで破壊される可能性は否定できない、徐々に水を入れながら様子を見ているところと言うのです。

 今の原発が置かれている状況を象徴するかの発言に、言葉を失います。

 今後、水素爆発や水蒸気爆発は起こりえるのかどうかについても「起こる可能性は相当低いのでは無いかと」考えているそうです。つまり起こりえるということの裏返しです。

 再臨界の可能性についても同様で、一部に言われていた「物理的、原理的にあり得ない」と言うことは一切無いことがわかりました。

 3・11前に私たちと国が議論をするときは、原発や核燃料施設に関する安全対策や安全性については、いつも「地の果てほど」の違いを感じてきたのですが、今日はそう感じませんでした。そう、私たちの感覚と国の感覚が近づいてしまった。これは粉飾しようもない現実の前には、大きな「見解の相違」などがなくなっていることを意味していると思うと、国や東電と「安全体制に問題有り」と丁々発止やり合っていた時期、もはや帰ってこない時期を懐かしくさえ感じてしまう自分がそこにはいました。(山崎久隆)

たんぽぽ舎メルマガNo.1069より転載