2012年3月20日(火)記 東日本大震災で被災した48人の手記を集めた「南三陸町からの手紙」を読んだ。 この本ができるきっかけは、高知県のシンガーソングライター「う〜み」さんが、震災後に現地を訪ね、何度も慰問コンサートを開いて町民と交流を続けたことだった。この現実を伝えなければ、いずれ忘れ去られる。テレビや映像は、そのときに見た人にだけしか伝わらない。言葉に残して、いつでも読みたいときに開ける本にできないだろうか。 そうした思いを汲んで、町民の有志が被災した人々、避難中の人々を一軒一軒訪ね、体験を聞いて周った。はじめは「う〜み」さんが代筆する案も出たが、これだけ重い体験はやはり、じかに書いていただくほかないと考え、ボランティアが原稿用紙を持ってお願いしに行ったという。書くのはちょっと・・としり込みする人ばかりだったが、2011年10月ごろからぽつぽつ書こうという人が現れ、協力者が増えていった。 一方で、プロジェクトにかかわるボランティアが東京の出版社に話を持ちかけ、12月には出版する手はずになった。ところが、集まった原稿は長短まちまちで、意味が汲み取りにくい文章もあった。出版社は編集作業で文章を取捨選択したが、発起人の「う〜み」さんは全員の文章をそのまま掲載するよう主張して意見があわず、12月には出版社の方がおりてしまった、という。 こうなれば、自費出版するしかない。「う〜み」さんが運営するNPO法人「なとわ」と現地のNPO法人「みらい南三陸」が寄付金や助成金を集めたが、印刷費にも足りなかった。そこで、残りの作業はすべてボランティアの手に委ねることになった。 手書き原稿をテキストにする作業は、大阪府枚方市立桜ヶ丘中学校の生徒たちが分担した。東京の「チームワンネス」が中心となって、東北出身のプロの編集者やボランティアが編集班をつくり、手分けをして編集にあたった。地元の四季の風景を撮り続けてきたアマチュアカメラマンの佐藤秀昭さんが、被災前と被災後の写真を提供し、これが表紙に使われた。津波で印刷所を流され、牛小屋に機械をいれて業務を再開した地元の「千葉総合印刷」が、印刷と製本を買ってでた。こうして、千部の初版ができあがった。 これまで何度か大きな災害を取材してきて、実感することがある。それは、被災前の平穏な日常を知らない人に、被災の実態は見えない、ということだ。大きな災害の現場に行けば、だれもが被害の惨状に圧倒され、とてつもないことが起きた、と息をのむだろう。けれど、その打撃の深さ、失ったものの重みは、それまで淡々と日々を営んできた人にしか見えないものだ。「がれき」と呼ばれるコンクリートや木材、車や日常品の「残骸」は、その人々にとっては、粉砕された、かけがえのない日常の断片だ。 その「がれき」が撤去されると、外から訪ねてきた人は、「やれやれ、ようやく復興が始まった」と思うだろう。しかし、その地に生きてきた人にとっては、今では夢のように思える懐かしい日々の断片すらも消え去り、空白感だけが残る喪失の風景にほかならない。 道路が造成され、新築の家や商店が建てば、以前の町並み、昔の暮らしを知らない人は、「あれだけの災害を乗り越え、復興が本格化した。たいしたものだ」と思うだろう。けれど、元の地に戻れない人にとっては、親しんだ風景がひび割れ、二度と戻ってこないことを知らされるつらい体験でもあるだろう。もちろん、明日に向かって暮らしを、町を再建することがどんなに大切なのか、わかっていても。 手記を読みながら、そんなことを思った。48人の手記を、編集をせず、そのまま掲載したいという人々の判断は、正しかったろうと思う。書かれた文章には、迫真の筆で「その時」を活写した手記もあれば、たどたどしい6歳の子の作文もある。数行ずつ、メモ書きのように印象をしるした文章もある。だがその不ぞろいの文章には一語ずつに、体験と引き換えに手に入れた、あるいは失ったものを言葉で埋めようとする思いの深さがこめられている。 その日、南三陸町は晴れあがって、春の気配が満ちていた。それが、震災・津波と同時に空が重く垂れ込め、雪が降りしきった。 「少し前まで、あんなによかった天気が一転し、曇り空になり、辺り一面がどんよりとしていました。何だか、重(おもー)く暗い世界に行ったような不思議な感じがしました」(匿名の女性教員) 震災後、高台にいた人は、海の水が見たこともないほど引き、まるで「西部劇に出てくる砂漠」のように底が表れるのを目撃した。「大きな津波がくる」。皆が直感した。 「あっと言う間に大きな波が来て、濃いグレーの色の波が防波堤を簡単に超えた。そばには、いけすや部品会社もありましたが、いとも簡単に一つ一つ、瞬間的に家も何も全部壊していきました」(女性、57歳) 「どこから流れて来たのか、家の屋根に乗ってきた人が見えた。助けに行くこともできなかった。船も来た。トラックも来た。丸太も数百本来た」(女性) 「まず、砂浜が消え、防潮堤がみるみるいっぱいになり一メートル位もぐんと盛り上がったかと思うと一気に流れ落ち、細浦の小さな入り江はナイアガラの滝のようでした」(女性、62歳) 「港の方から、バキバキ、ドンドンと言う大きな音と、白・茶色の煙が上がり次々と建物や車など黒い水に呑み込まれていきました。さっきまで見晴らしの良かった町が、煙で何も見えなくなり自分達の避難した場所のすぐ下まで一気に水があがってきました」(男性、37歳) 介護施設で働いていた人は車椅子を押して必死で避難し、高齢者芸能発表会に出ていたお年寄りは、会館屋上の倉庫に鮨詰めで立ち尽くし、ヘルパーは利用者の家を次々に訪ね、からくも車で危地を脱出する。浸水で何度も水に沈み、ようやく助けられた人もいる。 だが、手記を読んでみて気づくのは、多くの人がかろうじて一命をとりとめ、家族の多くも無事だったことだ。家族を失ったかたは、まだ手記をつづるまでの心の落ち着きは取り戻せていないのだろう。手記を書いたある女性は、家族も無事だったが、冒頭にこう書いている。 「あの日から6カ月、私は何も感じなかった。悲しみも怒りも寂しさも、何もかも流されてしまったのに、一切感情が無くなった。自分はこれほどまでに鈍く冷たい人間だったのかと思って過ごしました」 そして体験をつづったあと、こう書いている。 「7カ月たって初めて、津波に対しての怒りの気持ちがこみ上げてきました。ガレキの山をみるとやるせなくてイライラして、胸が苦しくなります。やっと感情が戻ってきたのです。そして感謝の気持ち。近所の方々はもちろん、いろんな人が来てくれた。震災にあい助けられて、「日本も捨てたもんじゃないな」と思いました。世界からも手伝いに来てくれました。 津波に対しては“怒り”ですが、人の心に対しては“ありがたさ”でいっぱいです」 そう書いた女性は「本当にありがとうございました」と繰り返してこの文を結んでいる。 「南三陸町からの手紙」の表紙カバーは、入り江に臨む緑ゆたかな春の町の風景が写っている。向こうには森林の木々が葉を茂らせ、手前には、のどかな田園を走る三両編成の電車が走っている。ところが、このカバーを外してみると、そこには、津波で何もかもがさらわれた被災直後の町の風景が広がっている。 私たちが、震災後の町に驚き悲しむのは、そう難しいことではない。もっと難しいのは、震災前の暮らしに思いをはせ、失ったものの大きさに想像をめぐらすことだ。 住む家がある。電気がつき、蛇口をひねれば水が出る。そんなあたりまえのことが、いかに大切なものか、ふだん気づくことの少ない私たちだが、一度災害を経験した人は、それを二度と忘れることはないだろう。 「南三陸町からの手紙」は、予算の許す範囲で初版を1000部印刷した。初版は一冊税込みで800円。完売を目指し、売上金を増刷に回して、次回からはもっと安くして、できるだけ多くの人に読んでもらう計画だという。 幸いに売れ行きは好調で、初版はあと100部を残すばかりとなって、増刷の準備をしているという。ご興味のあるかたは、下記引用先にご連絡を。 お問い合わせ・ご注文: NPOみらい南三陸 代表 下山うめよ 電話・FAX: 0226 (46) 9436 HP URL: http://mirai-minamisanriku.jimdo.com/ お支払い: 1冊800円(税込)+ 送料がかかります 送料は冊数とお届け先によって変わりますが、180円〜290円程度です 同封いたします請求書に従いお振り込みをお願いします 写真は 1 表紙カバー 2 カバーを取り外した本 |
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橘 2012/06/28 10:25 |
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