2012年3月14日(水)記 東京で、今野公美子(くみこ)記者にお目にかかった。 今野さんは、1972年秋田県生まれ。長く朝日小学生新聞、朝日中学生ウイークリーの記者を務めてきた方だ。 東日本大震災の大津波で、今野さんは仙台市若林区荒浜に住む父親の美彦さん(74)、母親の公子さん(63)、妹の美智子さん(34)の3人のご家族を失った。震災が起きてから何度もご家族を探しに現地に向かい、被災地を歩きまわってご遺体に対面するまでのつらい体験を、このほど、一冊の手記にまとめた。「震災が教えてくれたこと」(朝日学生新聞社刊)である。 本にしたのは、関東大震災の記録を調べた同僚の記者が、ほとんど当時の記録が残っていないことを知り、つらくても、その体験を記録に残すように、と勧めてくれたからだ。小学生でも読めるように、漢字にはルビを振り、序文では、ご家族と対面する場合に子どもが恐いと感じることに親の注意を喚起して、「本を子どもに手わたす際、配慮していただければ幸いです」と書いている。 実際、多くのご遺族にとって、身内に起きた悲劇を克明にしるすことは、とてもつらいことだろう。テレビ報道や新聞報道は、その体験を「ストーリー」として切り取ることが多いので、見る人読む人は感動しても、なかなかその実情の深いところまでは伝わらない。悲しみを乗り越えて自らが語り始めるには、まだ生々しすぎる。そうしたなかで、この本は、多くのことを教えてくれる貴重な証言ともいえる。 私は、被災地で何度か安置所の前を通ったが、一度も中には入らなかった。阪神大震災の時とは違って、避難所を訪ねて、お世話をする人やボランティアの方々にお目にかかっても、避難をしておられる方にお話をうかがうことはあまりしなかった。ご家族を失った方があまりに多く、震災直後では、とてもそうする気にはなれなかった。 震災後今野さんは、お母さんと妹さんに、「落ち着いたら連絡ください」という携帯メールを発信した。音声電話をかけなかったのは、電話に出て避難が遅れることを恐れたからだった。その夜、携帯で家族や秋田の親戚に電話をかけ続けたが、一カ所もつながらない。深夜に帰宅し、眠れぬ夜を過ごした。翌日、秋田の叔父から連絡があった。 今野さんのお父さんは、仙台市の大学を出たあと、東北地方を中心に転勤を繰り返し、定年退職後に、仙台市の荒浜で第二の人生を送ることにした。今野さん自身は、荒浜に住んだことはなかった。仙台には、ほかに親戚もいない。 仙台への交通手段がないため、今野さんは秋田に飛び、そこから叔父夫婦と車で仙台に向かった。避難所を回って名簿を探し、伝言板に自分の連絡先を残して、病院も訪ねた。 だが、ご家族は見つからない。荒浜には宿泊施設がなく、ガソリンも不足していた。いったん5時間をかけて秋田に戻ったが、秋田でもガソリン不足が始まっていた。叔父は一日がかりでガソリンを入手し、翌々日に再び、仙台に向かった。 荒浜に行くと、変わり果ててはいたが、自宅は奇跡的に残っていた。自宅とわかったきっかけは、居間の本棚に残っていた本の書名だった。震災の2ヶ月前、帰省して父の本棚を整理する手伝いをしたからだ。階段を埋めるがれきを押し分けて2階に行くと、妹さんの部屋からは、歯のレントゲン写真が見つかった。両親の寝室に入ると、水はベッドの上までは届いていなかった。「ここにいれば助かったのに」という叔父の声で、初めて叔父も兄の死を覚悟しているのを知った。 翌日も実家に行った今野さんは、身元確認のための写真と、DNA鑑定に役立つかもしれない3人の枕カバーをビニール袋に入れ、遺体安置所に向かった。 いつも身につけていたものは? 何か体に特徴は? そうした手がかりについて質問が続いた。安置所には、ご遺体の特徴をしるした書類と写真があり、該当しそうであれば、まずは写真を見せてくれる。 その日は、家族がみつからず、今野さんは翌日、名取市にも足を運ぶ。津波で、遺体が遠くまで流された可能性もあるからだ。名取市の安置所はボウリング場で、肉親や知人を探しに来た人は、棺の小窓からのぞく顔を見て確認をしていた。 震災から10日後、今野さんはいったん東京に戻った。仕事を再開し、週末ごとに仙台の安置所を探そうと考えていた。ところがその2日後、仙台の警察署から、父親の遺体が見つかった、という連絡が入る。地元歯科医が、歯の治療跡からそうわかったのだという。 親戚と一緒に、広いアリーナに向かい、整然と並ぶ棺の列を通って「C76」という番号をつけられた遺体に対面した。叔父も叔母も、その顔から、すぐには判断できないという。控え室に行き、発見直後の遺体の写真を見せられた。叔父たちは「ああ、これは似てる」というが、今野さんはまだ納得できなかった。もう一度棺に戻り、遺体の腕に残るアザを確認した。さらに遺体の顔を下から見上げる場所でしゃがんで、はじめて「お父さんだ」と確信した。 その場所から見て確信したのは、今野さんが子どものころ、見上げた父親の顔だったからだ。あとになって、今野さんはそう思う。 こうして、さまざまな出来事に遭遇しながら、今野さんは母の遺体を確認し、妹さんのなきがらに向き合う。そして、ご家族の知人たちに話を聞き、大人になってから知ることのなかった両親と妹の人間関係を見聞きする。 そこには、慟哭や悲痛な叫びといった劇的な場面はなく、文面から静かなレクイエムがたえず小さく響いてくるような、穏やかで淡々とした出来事が、整然と書き留めた譜面のように並んでいる。 「悲しいとか悔しいとか、感情がわき上がってくることはあまりなかった。どう言葉を発したらいいかわからないので、意味づけはせず、起ったことをそのまま書きました。事実を積み重ねていくしかない、と」 今野さんはそういったあと、「それほど悲しくない。一年たって、まだ悲しいというところに至っていない、ということかもしれない」とつぶやいた。 本を読んだ親から、「子どもに語り伝えなければいけないと思いました」という感想が寄せられ、素直に、「嬉しい」と思ったという。「親が子に伝える。そういう防災の文化に少しでも役に立てば、遺族としては一番、救われるかな」。 私が今野さんに話をうかがったのは、震災から一周年の翌日。今野さんが前日に、荒浜で親戚や妹さんの同僚たちと黙祷を捧げたあとだった。まだ、3千人以上のご遺体は見つからず、行方不明のままだ。今野さんのお名前には、両親から一字ずつが分け与えられている。 喪があけて大声をあげて泣くまでに、一年はまだ、短過ぎる。 |
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昨年3月9日、朝日新聞に掲載された「非戦・人権精神を受け継ぐ」を今も時々取りだして読んでいます。先日『3・11複合被災』を購入しました。 |
震災に挑戦し続けていることに敬意を表しま... 2012/03/14 19:29 |
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