2011年2月16日(木)記 東日本大震災の被災地では、いたるところで、宅配便や運送トラックが津波に押し流される光景をみた。おそらく、地元に住んでいない人で、たまたま用事や仕事で被災地に滞在したり、通りかかったりした人が、災害に巻き込まれたケースも数多くいらしたのではないか、と思う。 北海道旭川市で乾物卸の会社を経営する六車能久さん(61)は、その日たまたま塩釜で仕事をしていて、震災に遭遇した。お名前はろくしゃ・よしひささん、と読む。 六車さんは、海苔の買い付けのため、塩釜にある宮城漁協の海苔市場で朝から昼にかけて行なわれる競りに参加した。 競りにかかるのは、焼き海苔にする前の板状に折りたたんだ海苔である。卸業者や海苔専門店の業者ら100人前後が集まり、30〜40社が3〜4千万枚の海苔を競り落とす。 今はコンビニやスーパーなどで売られるお握りや弁当の需要が増え、使用量の過半数にまでなった。 競りはシーズン中、週に一度行なわれる。その日、六車さんは午前11時半までの競りに参加し、その結果を聞いた後、漁協建物の2階にいた。ほとんどの業者は午後2時ごろには引き揚げ、体育館ほどの大きさの建物にいたのは、競り落とした海苔を見るために居残った六車さんと、地元の取引先2人の3人だけだった。 大きな横揺れが続き、「これは大きいな」と机の下に潜って揺れに耐えた。何度も揺れが続き、ようやく揺れが収まったのは10分後くらいだった。 防災行政無線で「津波が来るので逃げてください」という放送が流れ、屋外からも、「早く逃げろ」と大声で叫ぶ声が聞こえた。 漁協は歩いて浜辺に行けるほど海に近い。海で暮らす地元業者も、津波のこわさはよく知っている。3人で外に出て、ワゴン車で高台に避難しようとした。 車で進むと、国道に向かう道は渋滞で車が数珠繋ぎになっており、少しも動かない。その長さが2〜300メートルにもなっているのを見て、地元の人が、漁協に引き返そう、といった。渋滞に巻き込まれたまま津波にさらわれる恐れがあったからだ。漁協の2階は高さ7〜8メートルあり、そちらの方がまだ安全と考えてのことだ。 午後3時ごろに漁協に戻ったが、今度は大きな余震が続いた。ここも安全ではない。地元の人の判断で、今度はもう1台あった乗用車に乗り、渋滞を避けて海岸沿いの道を仙台方面に向かい、地元業者の商店から高台に向かって車を走らせた。 ようやく塩竃神社にたどり着き、津波に巻き込まれずにすんだことを実感した。地元商店も1階は水に浸り、周辺の人々は大型スーパー2階に逃れて助かった。 六車さんはその日から2晩、地元の業者らと中学校に避難した。地元の人々は教室ごとに分かれて避難した。暖房はなかったが、混ぜご飯や水があるのが助かった。 その後、車で山形に行き1泊したが、山形空港の便は満席。新潟に向かうバスも満杯になっていた。娘さんにインターネットで調べてもらい、朝の6時から並んで鶴岡行きのバスに乗り、庄内ー羽田ー千歳便と乗り継いで北海道に戻った。 仙台や石巻に比べて大きくは報道されなかったが、塩釜でも被害は大きかった。亡くなったかたは47人、震災関連死も10人。浦戸など市域の22%に浸水し、地震と津波をあわせ全壊1009戸、大規模半壊2507戸、半壊2145戸に上る。塩釜市のホームページに掲載されている当時の写真をみると、その破壊力のすさまじさがよくわかる。 六車さんによると、日本の海苔の産地は有明がトップで過半数を占める。瀬戸内海、愛知、千葉などが大きく、北限の宮城のシェアは1割弱程度だろうという。産出量は少ないが、米と同じく最近は北の産品の品質が上がりつつあった。 今のところ取扱量は最盛期の1〜2割くらいにとどまるが、六車さんは、「津波であれだけの被害を受けたので、復興はかなり難しいと思っていた。1年もたたずに、これだけ皆さんががんばったことに励まされる」という。 海苔は全国でのシェアが比較的小さいが、これから始まるワカメでは三陸産が国内生産の過半数を占める。今年の収穫は震災前のどの程度まで復活するのか。六車さんは期待しながら見守っている。 昨年10月には、取引先の加工工場がある南三陸町にも行き、海側はもちろん、山側にあった工場にまで津波が達しているのを知った。 海の恵みで生きているだけに、その恵みをもたらす海の恐ろしさもまた、改めて思い知らされた。 写真は六車さん |
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