2012年1月10日(火)記 大熊町では、役場のすぐ近くにあるオフサイトセンターを訪ねた。 ここは、原発事故の際には、現地の司令塔になるはずの場所だった。しかし福島第一原発から5キロの地点にあったため、撤退を余儀なくされてまったく機能しなかった。 閉鎖された建物をガラスドア越しにみると、あたりは雑然として書類などが散乱し、撤退時の慌しさをそのままとどめている。建物の傍らには、撤収の際にだれかが置き忘れたのだろう。旅行バッグが半開きのまま地面に横たわっていた。 12月26日には、政府の事故調査・検証委員会(畑村洋一郎委員長)が中間報告をまとめ、官邸サイトで全文を公開した。事故についてはこれまで、政府のIAEAに対する報告書(2011年6月)と追加報告書(9月)、IAEAによる現地暫定報告書(6月)と最終報告書(11月)、東京電力による中間報告書(12月)が出ている。 今回の事故調による中間報告は、第三者が客観的に調査した点で、これまででは最も信頼が置ける内容だろうと思う。その報告書に沿って、オフサイトセンターを中心に、当時の問題点を探ってみたい。 新聞報道などでは、シビアアクシデント(過酷事故)対策の不備や、現場の事故対応の不手際などが大きく取り上げられたが、この中間報告を通読してまず印象に残るのは、事故における要であるはずの情報の「収集」と「伝達」が、まったく機能していなかったことだ。その失敗の原因は、オフサイトセンターと、原子力安全・保安院にあった。 99年のJCO事故をきっかけにできた原子力災害対策特別措置法(原災法)によると、原発事故が起きた可能性がある場合には、事業者が政府に通報し(10条通報)、さらに事故による防災措置が必要な事態が起きた場合(15条事態)、政府は「原子力緊急事態宣言」を発表する。 原災法などに基づく政府の対応は以下のように想定されていた。 現地対策本部が置かれるオフサイトセンターでは、関係省庁、東電、県、地元市町村などの要員が集まり、サイトからの情報を共有し、集約する。 一方、中央ではまず、政府が原子力災害対策本部を設置する。この事務局は、経産省別館の緊急時対応センター(ERC)に置かれた保安院とされていた。そこが現地からの情報を集約するセンターとなる予定だった。 官邸では、地下の危機管理センターに、各省庁の担当者からなる緊急参集チームが控え、ここで情報をもとに調整を図り、官邸に報告することになっている。 実際には、どうであったのか。 オフサイトセンターは、地震で停電した。すぐに非常用電源が立ち上がったが、ポンプが壊れたため、予備タンクがなくなると電気が使えなくなった。そこで、隣接する福島県原子力センターに移った。池田元久経産副大臣らがヘリでオフサイトセンターに着いたのは12日午前零時。1時間後には電源が復旧し、オフサイトセンターの活動を開始した。 ところが、マニュアルで集まるはずだった省庁のうち、集まったのは保安院、文科省、原子力安全委員、自衛隊のみで、他の省庁は来なかった。とりわけ、現地対策本部で医療班を担当する厚生労働省は、3月21日まで人を派遣しなかった。また周辺自治体6町のうち、参集したのは大熊町だけだった。 オフサイトセンターが備えている通信手段は一般回線、官邸・ERCと結ぶ専用回線、衛星回線だが、地震によって使えるのは衛星回線だけになった。これは固定1、モバイル3、車搭載2台の衛星電話である。だがモバイル1台はつながりにくく、車搭載2台も屋外に駐車していたため、センター周辺の放射線量があがり、使えなくなった。実際に使えたのは固定1、モバイル2台の衛星電話だけだったが、いずれもバックアップ用のため、伝送の量やスピードは、一般・専用回線よりも劣った。 このため、本来は使う予定だった政府のテレビ会議システム、緊急時対策支援システム(ERSS)、緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)、インターネット、電子メールは使用できなかった。センターとERCは、かろうじて衛星電話だけで結ばれる状態だった。 センター周辺ではすぐに物流が途絶え、水や食糧が不足した。さらに12日の1号機水素爆発、14日の3号機水素爆発で、放射線量もあがった。オフサイトセンターには空気浄化フィルターが備えていなかったため、15日午前10時ころまでには撤収を決め、その日のうちに福島県庁に移った。 原発から5キロに置かれたオフサイトセンターの失敗は、「事故は起きない。起きても5キロまで影響は及ばない」という根拠のない希望に根ざしていたのだと思う。「中間報告」は、驚くべきことに、オフサイトセンターには、第一、第二原発から10キロまでの地図しか備えがなく、12日に避難範囲が20キロに拡大した際に、担当者は市町村からの問い合わせに明確な返事ができなかった、という事実を指摘している。 他方、保安院が情報収集をしていたERCでも、とんでもないことが起きていた。「中間報告」によると、第一原発の非常災害対策本部が置かれた免震重要棟では、各サイトの中央制御室から固定電話などで送られてくるプラントのデータを、吉田昌郎所長が口頭で読み上げ、テレビ会議システムを通じて東京電力本店の非常災害対策本部に伝えていた。つまり、リアルタイムで現地からプラント情報は流れていたのである。 このテレビ会議システムは、12日未明にはオフサイトセンターも共有していた。ところが、肝心のERCは、この情報から遮断されていた。中間報告は次のようにいう。 「ERC にいたメンバーには、東京電力本店やオフサイトセンターが、社内のテレビ会議システムを通じて福島第一原発の情報をリアルタイムで得ていることを把握していた者はほとんどおらず、情報収集のために、同社のテレビ会議システムをERC に持ち込むといった発想を持つ者もいなかった。また、迅速な情報収集のために、保安院職員を東京電力本店へ派遣することもしなかった」 保安院の東電に対する指示や要請はほとんどが「正確な情報を早く上げてほしい」というものだった。これでは「情報収集」の体をなしていない。 保安院が東京電力のテレビ会議システムの端末を導入し、リアルタイムに情報を得るようになったのは、実に3月31日のことだった、という。 現地のオフサイトセンターと、災害対策本部ERCの保安院は、情報収集・分析の中心である。そのいずれもが機能不全に陥っていたのだから、情報が錯綜し、対応が混乱するのも当然だった。しかも、ここでは触れないが、官邸においても、首相執務室の5階と、地下にある危機管理センターの意思疎通がうまくいっていなかった。SPEEDI情報も危機管理センターまでは届いていたが、5階には伝えなかった。避難の指示など重要な意思決定は5階でおこなわれたが、危機管理センターでは、その推移を十分に把握していなかった。 私は、こうしたヒューマン・エラーを明らかにしただけでも、事故調の「中間報告」には大きな成果があった、と思う。ただ、今後おこなわれる首相や閣僚の聞き取りには協力の強制力がなく、事故調は個人の責任を問うこともしない。米国の事故調査委員会のように、事故の全容を明らかにすることを優先させるためには、やむを得ないことだと思う。だが、これだけの事故でだれも責任を取らないということはありえないだろう。また、「検証」をするためには、「検証」を検証可能とするような個別データの開示は欠かせないと思う。 国会にできた調査委員会、民間の事故調の活動に意味があるのは、こうした点を補うと期待されているからだ。 写真は上から 1オフサイトセンター 2外観 3センター脇に置き忘れられた旅行バッグ 4一時オフサイトセンターが使った隣りの県原子力センター |
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売れ筋パソコン徹底研究 2012/02/11 01:37 |
内 容 | ニックネーム/日時 |
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先日、疋田妙子さんから年賀の手紙をいただき、外岡さんが退職して札幌に移り、東日本大震災を取材してブログに書き続けていることを教えてもらいました。月曜から土曜まで仕事に追われているので、日曜の今日、初めてブログを拝読しました。私の知らないことばかりで、引き込まれました。「驚いた」マークは私のです。今後、1回目から順次、読んでいこうと思います。何ヶ月かかかるでしょうが。船橋洋一さんからいただいた賀状に、シンクタンクを設立して大震災の「民間事故調」に取り組むと記されていました。この章の結びにある民間の事故調の一つになるでしょう。大いに期待しています。私の豆腐屋はなんとか続いています。スペイン人のお客がじわじわ増えて、トンネルの出口が見えてきました。メールアドレスは、 |
シミケン 2012/01/22 20:32 |
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