2012年1月7日(土)記 先月、一時帰宅する知人について、福島第一原発の警戒区域に入った。 ちょうど、半径20キロの場所にあるジェイ・ヴィレッジ近くで簡易防護服を身につける。靴底に放射性物質が付着しやすいというので、靴の上から覆いをはき、足首のところをガムテープでしっかり止める。マスクをつけ、両手に軍手をはめ、さらにその上にビニール手袋をはめる。 検問を通過すると、めっきり車の台数が減った。だが、自衛隊の車や作業車両は思ったよりも多く、コンクリート・ミキサー車も走り回っている。地震で陥没したり、液状化でマンホールが浮き上がったりしたままの道路が多く、本格的な除染作業の前に、補修しておかねばならないからだ。 富岡町役場では、大勢の自衛隊員が除染作業にあたっていた。本格的な除染を前に、まずは拠点となる役場を確保するという方針だ。 しかし、思った以上に、田畑は広い。 富岡町から大熊町にかけて、一面の草原が広がっていたが、知人に聞くと、原発事故以前は田んぼだったという。町民が一斉に避難したため、雑草を抜く人がおらず、盛夏には隙間なく人の背丈ほどの高さの草が密生した。今は先が薄茶色に枯れて茫々としており、枯れススキが混じり生えているが、季節がめぐればまた、青々とした草地に戻るだろう。 突然、黒い放れ牛が数頭、車に向かってきた。人手を離れた飼い牛が草を食み、夏を生き延びた。野生化して性分が荒くなっており、時には車に突進する素振りをみせるという。 「仔牛を産んだ牛もいます。飼い犬も野犬になって、あちこちの家に残る食べ物を漁っています。自然って、こわいほどだ」 原発事故によって、風景が自然の猛威をむき出しにし、動物たちが野生化する。一見、そのようにもみえる。ただ、こうした里山や田畑の風景は、もともと人が長年丹念に自然に手を入れ、共棲をはかってきた結果だ。牛や馬、犬といった家畜も、人が世話をし、丹精こめて育ててきた。いまこうして広がる原発事故後の光景は、自然との共棲をはかってきた人間の不在、「脱人間化」の結末を黙示している。自然の復活といえばまだ期待もわくが、これは端的な人間の喪失を告げる光景だ。 「事故の後の大熊町って、ほんとうに音がしない。無音の世界です」 知人がいうように、たしかに聞こえるのはカラスが鳴く声だけだ。車を停めて外に出ると、マスクの中の呼吸音と、防護服の衣擦れしか聞こえない。 中学校も事務所も住宅も、あのときのままで時間が停止している。病院には、あの日を示すカレンダー、そのときを告げる時計の秒針が凍結したままで、昼食の配膳を下げた盆には、給食の食べ残しが滓になってこびりついている。ちょうどカラオケ大会をしていたのか、黒板には入院患者さんの名前と、歌う曲名が書かれたままだ。 大津波に襲われた人々は、一刻を争って着の身着のままで避難した。残ったものは財布や携帯など、肌身離さず持ち歩いていたものだけだ。自宅や職場は流され、アルバムや位牌といった思い出そのものが失われた。 だが原発事故も、その点では同じだった。避難を指示された人々は、とりあえず運べるわずかの貴重品をひっつかみ、数日たてば戻れると信じて、自宅を職場を後にした。 津波の被災地とは違って、建物が残った家は多い。だが地震のために瓦が落ち、破れ目から雨滴がしたたって、家中がカビや苔に覆われた家も少なくない。泣く泣くペットを手放した人、飼い牛を捨てざるをえなかった酪農家。丹精こめて栽培した田畑を荒れるに任せるしかなかった人。放射能は「目にはみえない大津波」であり、容赦なく郷里と暮らしを薙ぎ倒した点では、変わるところがない。 野田佳彦首相は先月16日、福島第一原発事故の「収束」を宣言した。 また18日には今年4月をめどに警戒区域を解除し、年間放射線量に応じて3つの区域に再編成する方針を自治体に伝えた。20ミリシーベルト未満で、今春から帰還できそうな「避難指示解除準備区域」、20〜50シーベルト未満で数年は帰れそうにない「居住制限区域」、そして50ミリシベールと以上で帰還に5年以上はかかるという「帰還困難区域」である。 事故が「収束」したというのは、政治的な期待の表明であって、その宣言の前後に何の事態の進展もない。もともと「冷温停止状態」という表現も、科学的に定義された事実の説明ではなく、仮設の循環冷却水で「とりあえずは冷やしている」状態を指しているに過ぎないのではないだろうか。 20ミリシーベルト未満の土地を大規模除染し、一刻も早く帰還を目指すという点には賛成したい。ただし、それが職場の復帰や創出を伴わなければ、故郷に戻りたいお年寄りだけの町になってしまう心配がある。商業施設や病院、福祉施設が戻らなければ、生活にも不便な「原発過疎地」にもなりかねない。 「居住制限区域」と「帰還困難区域」では、除染をどう進めるのか、費用対効果も見極めたうえで、早く基本方針を決める必要があるのではないか。膨大な除染費用をかけても効果がないのなら、そのコストを被災者の生活や住宅の復興にあてたり、近くに代替地を提供したりするなどの選択肢も考えられる。 被災をピークとして、その後なだらかに、しかし確実に復旧や復興に向かう通常の災害と違って、原発事故には人生の各ステージを超えて被害が続く複雑さがある。いま60歳の人と、10歳の人にとって、今後の5年、10年間は、まったく違う意味合いをもっているだろう。できるだけ多くのメニューを示すことで、一人でも多くの人の暮らしが崩壊しないように、息長く支える仕組みと気構えが必要だと思う。 写真は上から 1 防護服を着る 2 草地にはあちこちに放れ牛がいる 3 あのときのまま、停まった時計 4 人気が絶えた警戒区域。まだ地震で損壊したままの建物が目立つ |
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