外岡秀俊 3.11後の世界

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<<   作成日時 : 2011/12/14 14:56   >>

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 2011年12月14日(水)記

 お世話になった藤原良雄先生と気仙沼で別れ、仙台経由でバスで石巻に向かった。

 今回は、ピースボート災害ボランティアセンター代表理事の山本隆さんにお話をうかがうのが目的だった。

 「ボランティア元年」と呼ばれた阪神大震災と比べて、今回の東日本大震災では、ボランティアの活動はさほど目立たなかったように思う。当初は交通機関やガソリン、宿泊施設がなかったことや、被災があまりに広域で、一カ所に集中した阪神の時のように、どこでもボランティアであふれ返るという状態にはならなかった。

 それでも、石巻を拠点にしたピースボートと、遠野を拠点に三陸に多くのボランティアを送り出した遠野まごころネットの活躍は、際立っていた。山本さんには、今回のボランティア活動の難しさや、今後への教訓をうかがってみたい、と思った。

 兵庫県西宮市出身の山本さんは、90年代初めからピースボートにかかわり、95年の阪神大震災が起きたときには、東京のピースボートの職員だった。1月末から神戸市長田区に入り、4月までピースボートとしては初の災害救援活動に携わった。

 客船で世界を一周して平和を考えるピースボートは、航海中、さまざまなニュースを発行する。そのノウハウと印刷機をいかして、被災地のニーズを掘り起こし、「デイリーニューズ」を発行し続けた。当時は私もピースボートの活動を取材をし、ニーズとボランティアのマッチングをはかるその臨機応変の試みが、とても役にたったことを覚えている。

 山本さんは、その後もスマトラ沖津波のスリランカや米国のカトリーナ水害など、世界各地で救援活動をしてきた。

 今回の東日本大震災では、毛布を集めて緊急車両の指定を受け、4人のメンバーでトラックとバンを運転し、水やカップラーメン、毛布を配った。1週間後には仲間6〜7人も応援に駆けつけた。

 今回、石巻で幸いしたのは、専修大が市と協定を結んで敷地をボランティアに開放し、そこを拠点にすることができたことだった。市の社会福祉協議会もそこにボランティア・センターを置き、受け入れ態勢を整えた。

 ふつう、災害が起きたときには、市町村の社協が受け入れ窓口になり、ボランティアを受け入れる。しかし、今回のように自治体や社協の建物や職員らが被災した場合、その受け入れはとても難しい。私が取材した例では、釜石では震災直後、新潟など他県から社協の職員が応援に駆けつけ、そのボランティア・センターで毎日、ニーズとボランティアのマッチングをはかっていた。しかし、大勢のボランティアが駆けつけると、その拠点確保や地元の情報を提供するだけで、かなりの人手をとられてしまう。

 この点、石巻では市社協とピースボートなどがすみわけをはかり、社協が個人ボランティア、ピースボートなどが団体を受け入れるという方式が定着した。
 どこでも社協のボランティアが一本化して受け入れをするが、この方法だと、社協のキャパシティに見合った分しか受け入れができず、「ボランティアはもう十分」という誤ったメッセージが発せられてしまう。実際には、被災地にニーズがないということはありえない。専修大では、炊き出しやメディカル、ボランティア団体の運営など、分科会にわかれて各種団体が毎日調整をはかったため、運営がスムースだったという。

 活動は物資配給から炊き出しに移り、その後は泥さらいやがれきの片づけが中心になった。いずれも長期的な取り組みが必要だ。炊き出しには、まずニーズを掘り起こし、大勢の人手で、計画的に、持続的に続けていかねばならない。ピースボートは今回、東京などで災害ボランティアを募集し、一週間単位で活動するグループと、2泊単位で活動するグループの2班に分け、東京と石巻をピストン輸送した。2泊単位は週に3便を出した。「一度始めるからには、責任をもって一定の人を送り、活動を貫徹する必要がある」と考えたからだ。説明会では事前に班長を決め、テントや寝袋、各自の食料は自前で準備することなどを徹底した。

 ピースボートは一日最多で15箇所、2500食を提供した。4月半ばには、自衛隊が8000食を提供し、ボランティア団体は3万食を提供していた。この間、毎週のように自衛隊と話し合い、いかに炊き出しを安定させるかについて調整を続けた。災害時に自衛隊とボランティア団体が、緊密に連携したはじめてのケースといえるのではないだろうか。食材は生協や大地を守る会などから送ってもらい、後には災害救助法に基づき、市からも出してもらった。

 泥のかき出しは、「2年はかかる」と思っていたが、人海戦術が功を奏し、10月には中心部の主だったところが終わった。公共スペースについては、それ以外でもほぼ片づいた。

 ピースボートは4月に社団法人災害ボランティアセンターを設立し、山本氏が代表理事に就いた。助成金も受け入れ、長期にわたって活動を継続するためだ。今は浸水した居酒屋から建物を借りて事務所と厨房にあて、近くの倉庫の提供を受けて240畳の建物を120〜130人が寝泊りできる宿舎にして、ボランティアを受け入れている。

 今後はどうするべきか。センターでは仮設住宅への新聞配布や漁業振興のお手伝い、子どもたちへの支援、ボランティア・リーダーの養成などに力を入れていくという。専従は石巻に13人、東京に7人という長期態勢だ。

 「ボランティアが長くいると、自立の妨げになる」という人もいるが、そんなことはない、と山本さんはいう。石巻ではもともと、人の流出、店舗や商業の空洞化、高齢化などが続いていた。スタート地点よりも上にいったところで、はじめて「自立」といえるのではないか。

 「ボランティアは、来たらラッキー、という時代ではもうない。台風12号、15号の水害でも、ボランティアが来なければ、水浸しになった民家の泥かきはできなかった。災害にあうと、外から来る若い人の力がなければ、立ち直れない社会になっている。その点が神戸のときとは違っている」

 たしかに、高齢化、過疎化が進むにつれ、外部から来る若いボランティアなしには、もう災害に対処できない時代である。社協だけが受け入れを担当するのではなく、今回のように、民間のコーディネーターが調整に入り、アドホックな司令塔を現地に立ち上げるという仕組みをつくるべきだろう。今回の教訓を、将来にぜひいかしてほしい、と思う。


 写真は、上から
 1山本隆さん
 2居酒屋を改造した事務所で働くピースボートのメンバー

 



 
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