2011年12月14日(水)記 藤原良雄さんと、大船渡の市内を通り、高台にある大船渡中学校を訪ねた。 藤原さんが定年になる前、先生として赴任してきた後輩の女性教師が、震災時に大船渡中に勤めていた。その人を見舞い、お菓子を差し上げるためだ。 震災直後、避難住民でごった返していた中学校は、いまはすっかり静寂を取り戻し、生徒達がはきはきと、挨拶の声をかけてくる。それだけを見たら、もう日常となんら変わりはないようにも見える。 だが校庭の一角から市内を一望すると、その光景に言葉を失ってしまう。 大船渡は港湾に沿って数キロにわたり、押しつぶされたコンクリートの建物が並び、大津波にさらわれた木造家屋が遠くに運ばれ、コンクリートの電柱はへし折られて、中の電線の束がむき出しになっていた。がれきの堆積があれほど大量に残った市は、ほかには見かけなかった。 その膨大ながれきは、ほぼなくなり、市の中心部に広大な更地が生まれた。がれきが取り除かれてみると、その被災の範囲の大きさを、改めて思い知らされる。数百年にわたって、営々と築いてきた都市が、失われてしまったのだ。これから町のダメージを修復して再建するというより、都市を丸ごとひとつ、新たにつくらねばならない。それほどに、失われたものは大きい。 陸前高田は、震災直後から、ほとんど何も残っていなかった。広大な荒地に横殴りの雪が吹きつけ、大地を白く覆っていた。その跡地では、そこかしこに、数知れない重機が動き回り、がれきの処理に追われていた。 9ヵ月を過ぎたいま、被災地の現状をひとことでいうと、ようやくがれきの山が姿を消し、人々が仮設住宅や借り上げ住宅に落ち着き、やっとスタート地点にたった、ということだろう。復旧は、これからだ。 それほど被災の規模と打撃が大きかったともいえるが、他方で、政治はそれだけのことしかしてこなかった、ともいえる。 ある人がいった。「おれたちは、すっかり失ったんだ。でもみんな、福島の人たちに遠慮して、何もいわなっかったさ。福島だって、あんなひどい目にあってんだもの。だけどさ、何もかも失ったってことを、みんな忘れてしまったんじゃないか」 震災後、報道の焦点は大津波から原発事故に移り、岩手や宮城の津波被災については、影が薄くなった。 時折、「復興でがんばる」とか、「私たちは忘れない」と、思い出したように取り上げるだけで、政治の取り組みの遅れや、その原因や構造に、どれほど鋭く、深く迫っただろうか。私もふくめて、ジャーナリズムは今回も大災害に、敗北し続けているように思う。 気仙沼に入る。津波と火災の被害の大きかった鹿折地区には、まだ黒こげの建物が残り、道路脇には巨大な船舶が陸地に乗り上げたままだ。ここを、津波の記憶をしるす祈念館にして後世に伝えようという話も出ているという。 港湾はようやくがれきが取り除かれたが、建物の多くはそのままだ。開いている店も、まだ数えるしかない。港には漁船や大型フェリーが戻ってきたが、夕方になるとその灯がかすかにともるだけで、港は暗い闇に沈んでいく。 前にお目にかかった吉田教範さんのご一家を訪ねた。あの震災の当日、四代にわたる8人が別々の地で被災し、再会までに数日間、水と炎のなかをさまよった。 あのとき、入院していた祖母和江さんも、その後退院して一家に加わり、大家族は全員がお元気だった。津波に巻き込まれて亡くなった祖父清實さんの遺影が見下ろす部屋で、にぎやかになるご一家を眺めて、ようやく明るい気持ちになった。あのころ、産着にくるまれ、泣いていた次男の圭吾ちゃんは、いまは歩くようになって、わんぱくぶりでは兄の匡希ちゃんにも負けない。父親孝幸さんは、毎日、建物の解体作業に追われ、風貌が一段と精悍になった。 教範さんは震災後、33年勤めた気仙沼漁協を解雇され、今も失業中だ。港の再起には時間がかかる。しかし、自分の経験が必要とされる時期がいつかはくる。無事だった大家族を目を細めて見守りながら、そう心にひめている。 写真は上から 1 大船渡中学校から見た市街地 2 陸前高田市で 3 気仙沼市の鹿折に残った船舶 4 吉田さんご一家 |
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