2011年12月13日(火)記 今回の岩手の旅では、中学校で42年間、社会科を教えた盛岡在住の藤原良雄さん(77)のお世話になった。福島で取材のあれこれを支えてくださる降矢通敦さんのご紹介で、私を車でご案内してくださったのである。 藤原さんは、釜石で少年期を送り、高校を卒業して最初に赴任したのが釜石市の漁村尾崎白浜だった。その後、岩泉町で長く教鞭をとり、盛岡でも教えてこられた。震災後、各地で連絡がとれなくなった方や、直接お会いしていない知己も多い。藤原さんがそうした人々をお見舞いに訪ねるのに、私も同行させていただくかたちとなった。 藤原さんの小学校の友人が、釜石市の両石で被災し、仮設で避難生活を送っておられる。共通の友人からの情報で、両石か鵜住居(うのすまい)近くの第四仮設住宅にいらっしゃることがわかった。しかし、鵜住居近くの仮設には、A、B、C棟といった表示があるだけで、第四という数字表記がない。住居案内も小さな道標がぽつんと立っているだけで、不親切なことこのうえない。「仮設」とはいえ、これからしばらくお住まいになるのだから、もう少しの配慮があってもよいのではないか。 ところで藤原さんは、「電話で聞いたものだから、Cを四(しー)と聞き違えたのかもしれない」とおっしゃる。そこでC棟の部屋番号を訪ねると、表札は別の方の名であったが、転居先に『栗林町第4仮設』という住所が書かれており、ようやくそちらの第四仮設であることがわかった。 しばらく迷いながらようやく訪ねると、友人の山崎幸太郎さん(78)と智恵子さんご夫妻が、驚きながら藤原先生を迎えた。 山崎さんのご自宅は、両石の高台にあった。石垣の上に建てられ、海抜は16メートル。坂道をあがったところにあり、周囲の家は明治三陸、昭和三陸の大津波でも無事だった場所だ。震災の日、大きな揺れでいったんは表に出たが、寒い日だったので、揺れが落ち着いてから、また家の中に戻った。味噌汁の鍋がひっくり返り、散乱していた。 ただ事ではない。妻を促し、防寒着に帽子、手袋を身につけさせ、避難所になっている近くの学校に送り出した。愛犬のラプラドールは、連れ出す暇がなかった。山崎さんは、自宅の裏の山に通じる階段を登って、両石湾の方を見つめた。 両石湾口で、海が渦を巻いていた。眼下に、船や家が流されてくるのが見えた。全体に、ゆっくりとした流れに見えるが、引き波が始まると船がバランスを崩してくるくると回り、その速度に驚いた。引き波が防潮堤あたりに戻ったところで、第二波とぶつかり、空を覆うような黒い煙があがった。山崎さんは、すぐに階段をもっと上へと駆け上がった。 住民80人ほどが、上にあった2軒の民家に避難し、翌日、もっと奥にある避難所に向かった。一家は息子さん夫婦やその子どもたちなど計8人だが、全員無事とわかったのは4日目のことだった。その後、中学校の体育館で過ごし、8日目にようやく北上の知人を頼って避難所を抜け出た。 一時は息子さんらと雇用促進住宅に入ったが、5階で上り下りがきついため、9月から仮設住宅に移ってきたという。 鵜住居は後背地が平らなので、まだ土地が見つかるかもしれない。しかし、高台にあった山崎さんの家すら流された両石で、安全な土地を見つけるのは難しいのではないか、という。期待しているのは、市営住宅だ。 お孫さんのうち、小学生と中学生の2人が、近くに建設中の仮設学校に通うため、その仮設住宅で一緒に暮らすことになるという。そのとき、ご夫婦の表情が明るくなったので、ほっとした。 「お大事に」。藤原さんがそういって、持参した差し入れの品を手渡した。 写真は上から 1 山崎幸太郎さん 2 藤原さん(右)と山崎さんご夫婦 |
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