2011年12月11日(日)記 12月7日、釜石市で菅原規夫市議にお目にかかった。 はじめてお目にかかった菅原さんは、私に写真をくださった。3月11日、菅原さんは市議会の審議に参加しているさなかに、震災にあった。3階の議場が大揺れに揺れ、天井が剥落するかのようだった。市役所のうえから、夢中で津波浸水の様子を連続写真におさめた。真っ白い水しぶきがあがり、ばりばりと家が壊れてゴミと化し、大波にさらわれた。その一瞬をとらえた写真である。 「昭和38年(1963年)に、釜石の人口はピークの9万2千人でした。製鉄所に9千人、下請けに2万人が働いていた。1965年ごろから釜石の製鉄所が合理化され、名古屋や東海に人口が流出していった。震災前の人口は39000人でした。1074人が亡くなり、今は3万7千人。子どもたちのところに避難したり、借り上げ住宅に移り、人口はどんどん減っています」 釜石の基幹産業は水産業だ。面積の89%は森林だが、今の時代、林野では生きていくことはできない。製鉄は今も正規社員300人、関連企業1000人を雇い、スチール・タイアで使う針金の3割のシェアを製造している。製鉄所の敷地を借りて、コンプレッサー関連の事業でも1100人から1200人の雇用を確保してきた。 こうした雇用の場を、今後も確保できるかどうかが、最も大切だ、と菅原さんはいう。 「製鉄所の敷地に6メートル10センチの高さ、幅30メートルで盛土をして緑地公園にし、後背地の住宅を津波から守ろうという構想があります。町づくり構想は12月の市議会最終日で決まりそうです。しかし、こうした町づくりと並行して、なんとか若手人口の流出を食い止めなければならない。彼らが市にとどまってくれるかどうかが、かぎなのです。町は残ったが、人口は2〜3万人の小さな地方都市になるか、もう一度再生するか、それは、若者たちの雇用を確保できるかどうかにかかっている」 菅原さんは36年間、中学の体育教員を務め、小学校の校長もしてきた。市の将来が、若者たちにかかっていることを、肌で感じてきたのである。 釜石市の中心部は、依然としてコンクリートの建物が、解体されずに残っている。海浜は、夜ともなれば明かりもなく、ゴースト・タウンのように闇に沈む。どうしてこれほど、作業が遅れているのか。震災から9カ月も過ぎようというのに、この光景は、「異様」というよりほか、形容すべきすべがないように思える。 釜石は、近代化の波にのまれ、何度も浮き沈みを体験してきた。浮標のように、日本の近代の潮位を記すその町のこれからは、日本全体のこれからの指標のようにも思える。どうにかしして、よみがえってほしい。そう、切に思う。次世代が生きる希望をもてる釜石にできるかどうか、私たちの国の将来も、実はそこにかかっているように思えてならない。 写真は上から 1菅原規夫市議 2今も進む家屋の解体作業 |
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