2011年12月10日(土)記 岩泉町から宮古市田老地区に向かう。 かつて威容を誇った日本一の防潮堤は、総延長2・4キロで、「万里の長城」ともいわれた。海寄りと内寄りの二層構造で、高さは約10メートル。上に立つと、幅も約3メートルあり、遠くまで見通せる。 田老地区では、1896年の明治三陸津波で1859人、1933年の昭和三陸津波で911人の犠牲者を出した。 その昭和三陸の翌年から防潮堤が築かれ、半世紀近くたった78年に完成した。高台移転よりも、防潮堤で集落を守る、という選択だった。60年のチリ地震津波では、この防潮堤に守られて犠牲者は出さずにすんだ。田老は津波防災の先進地でもあった。 だが今回の大津波は、いとも簡単にこの防潮堤を乗り越え、集落になだれ込んだ。宮古でも最も多い1609棟が全壊し、59棟が半壊した。 いま、ガレキはほぼ撤去され、田老地区は更地のようになり、建物の基礎部分だけが集落のあとをとどめるばかりだ。防潮堤から眺めると、今もその地を襲った津波のすさまじさが身に迫ってくる。 宮古中心部に行くと、かつてペンキの赤字で「解体OK」と書かれた建物の多くは壊され、被害が大きかった市役所周辺や磯鶏地区では、沿道に更地が目立つ。湾内には、係留された船も見える。以前の町並みを知らない人が見たら、津波被災から「復旧した」と思うかもしれない。しかし、あちこちに空白が目立つ町並みは、地元の人々に大きな「喪失」を感じさせこそすれ、とても「復旧」への足がかりができいたとは、思えないだろう。 しばらく行くと、壊れた自動車が山をなしている光景に出くわした。ガレキがようやく、目の前から片付けられたというだけで、復旧はこれからなのだ。 宮古では、地元の交通会社で事業部長を勤める阿部功さんのご案内で市内を回った。 「がれき処理は進んでいますが、地場産業は少しも復旧していない。被災した1078事業所のうち、復旧の目途が立っているのは、65事業所程度。12の事業所が中止を決め、53事業所が休業しています」 宮古市では市内7会場で説明会を開いて市民から意見を募集し、10月31日に復興計画の「基本計画」を策定した。復興に向けた基本的な考えを定めたものだ。 それによると、計画期間は平成23〜31年の8年間で、平成25年度までを「復旧期」、28年度までを「再生期」、31年度までを「発展期」として、「すまいと暮らしの再建」「産業・経済復興」「安全な地域づくり」を3本の柱にしている。 今のところは、生活再建支援、雇用の維持・確保、保険・医療の確保、学校教育環境の確保など、暮らしの建て直しで精一杯だ。 将来の町づくりについては、これから33地区で市民から意見を聞き、来年3月に「推進計画」をまとめるという。 「問題は雇用の確保です。地元に勤め先がなければ、若者は盛岡など県内のほかの都市に、そこでも雇用がなければ、県外に行ってしまう。宮古ではやはり漁業や水産加工が主産業。市内の森林率は83%で、林業がもうひとつの柱です。金型産業もあるが、やはり一次産業の再生がカギになるでしょう」 そう阿部さんは話す。 それにしても、この間、政府の復旧・復興計画は、あまりに遅々としていた。第三次補正を通すのがこれほど遅れたために、現場は長い夏を手探りで歩むしかなかった。 三陸の国道ではいま、「本格復旧工事」がおこなわれ、補修のためにいたるところで片側通行になっている。まだガレキの撤去や解体工事が進められている市町村が多く残っている。渋滞で待たされるたびに、「そんな補修工事より、まだ先にやらねばならないことがあるのでは」と、つい思ってしまう。 写真は、上から 1 田老地区 2 まだ車の山が残る宮古市郊外 3 阿部功さん |
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小田倉良子 2011/12/10 10:28 |
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