2011年12月9日(金)記 12月7日、岩手県岩泉町を訪ね、橋場覚副町長にお話をうかがった。 下閉伊郡に位置する岩泉は、本州の町では最も広い地域を抱え、太平洋岸では小本地区が海に臨む。全国ニュースで大きく取り上げられることは少なかったが、この小本を中心に、津波が浸水し、全壊177戸(うち流出80戸)、大規模半壊、半壊、一部損壊各10戸という被害が出た。また、他の市町で被災した人を含め、11人が亡くなっている。町役場にインターネットが通じたのは3月30日で、それまで連絡は途絶え 岩泉町民11000人のうち、小本には440人、隣の中野に430人、近くの小成に150人が住んでいた。最も被害が大きかったのは小本で、津波が川を遡上した中野でも家屋が一部流された。 平成のはじめには、高さ13・3メートルの防潮堤が完成した。今回の津波でも壊れなかったが、水はそれでも小本の深くにまで到達した。約500人が身近な場所に避難し、その後、公民館などの避難所に移った。 小本では明治三陸津波で約360人、昭和三陸津波で164人という多くの犠牲者を出した。今回、比較的被害が少なかったのは、二度の大津波での犠牲が、長く受け継がれ、避難訓練などで「揺れたら逃げろ」という教えを徹底していたからだ、と橋場副町長はいう。 また、町では2年前、国土交通省に頼んで小本小学校裏手から、高台の道路に逃げる津波避難階段を設置しており、今回も88人の生徒全員が、その階段ですぐに避難した。これは「国土交通白書2011」のコラムでも紹介された(http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h22/hakusho/h23/index.html) 小本小学校の例は、津波ではふだんからの訓練がいかに大切か、さらには、日ごろから津波で避難する場合の具体的な経路を確保しておくことがどれほど大切かを教えてくれる。 岩泉町は、避難した住民のために毎日3〜5台のバスを出し、住民は朝7時半に出発してから午後3時まで、ガレキの片づけなどの整理にあたった。 外から見れば「ガレキ」の山であっても、住民にとっては「わが家」であり、その中にはアルバムや日常品など思い出の品々がいっぱい詰まっている。住民が自分達で作業にあたることで、作業ははかどり、人々も思い出の品々を手にできた。災害にあたっては、そんな細かな目配りも大切だ。 町では9月16日に復興計画を策定し、町づくりに乗り出している。基本になるのは、@生活A産業の振興B安心・安全の3本の柱だ。 今は、地域で一番奥まった場所にある民間地を町が買い上げ、併設小中学校、子ども園、避難施設など「学びのゾーン」をつくり、かさ上げや盛り土をして安全を確保したうえで、駅周辺に支所や病院、観光施設などを置く案などを検討している。小型船は流されたが、幸い、定置網用の漁船2隻は無事だったので、中核となる漁業は早めに復旧できる見込みだ。 ここでも、やはり被災者のための公営住宅は必要だ、という話が出た。地権者から土地を買い上げるとしても、被災者すべてが地権者とは限らない。新たな家を建てられる人ばかりではないし、お年寄りはむしろ、安い公営住宅に入りたい、という人が多いだろうという。 岩泉町でのお話を聞いて感じたのは、被災地における被害の多様性と、復興への道筋の測りがたさだ。地域に安全と安心をもたらすには、それぞれ肌理こまかく被害実態を把握をし、災害での弱点や強みを一つ一つ点検したうえで、地域に応じた対策をとるしかない。しかも、その復興にあたっては、産業育成も考え、地域を活性化する道筋を思い描かねばならない。 復興をパターン化することは難しく、それぞれの地域が、納得のいく手法で、青写真を描くしかないだろう。しかも、国はそれを待ってから予算措置をするのではなく、いくつかのパターンに応じたメニューを準備し、市町村の「希望」を底支えしていなくてはならない。その予算措置が、政争のためにここまで遅れたことは、与野党ともに大きな責任があると思う。 写真は上から 1 橋場覚副町長 2 小本地区 3小本小学校裏手にあった津波避難階段 |
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