2011年10月29日(土)記 郡山市富田町にある仮設住宅では、原発立地の富岡、双葉町と、川内村から避難してきた住民が暮らしていらっしゃる。 うち、富岡町の仮設は280戸で、ほぼ満員状態に近い。ここは病院や商店街にも近く、他の仮設よりも比較的便利なため、人気がある。 富岡町の住民は8月下旬、自治会を設立した。その副会長になった角一實さん(82)にお話をうかがった。 一實さんはバス会社に長年勤めたあと、週に3日は系列会社で運行管理代務者として運転手の点呼や健康管理をおこない、週に2日はソフトボールのスポーツ少年団監督として子どもたちを指導し、充実した第二の人生を送っていた。 奥さんは7年前に亡くなったが、息子の政實さん(58)は町議会の事務局長、娘の恵子さん(57)も結婚して近くに住んでおり、これから悠々自適の人生を送るはずだった。 3.11の原発事故で、すべてが失われた。恵子さんらは川内村に避難した。政實さんは朝に出勤したまま連絡がとれず、一實さんは、避難バスの手配をしながら富岡町にとどまった。2日後には、だれもバス会社に出勤せず、一實さんも川内村に避難し、そこから郡山のビッグパレットに向かって一カ月ほど避難生活を送った。 そこから恵子さんらと磐梯熱海の「かんぽの宿」に移ったが、そのころ、恵子さんの27歳になる息子さんは、郡山で福祉の仕事を見つけ、一家は郡山の仮設に住むことに決めた。 息子さんは、将来も富岡町には戻らず、郡山に住むつもりだという。 「若い人のなかにはもう、仕事を求めて茨城や栃木、新潟や首都圏に移っていった人が多い。県内の仮設には、どうしてもお年寄りや、仕事などで二重生活を送らざるをえない夫婦の単身世帯が多くなってしまう」と一實さんはいう。 「富岡に帰れるのは、あと5年先という人がいるが、そのころに、私は88歳。それでも、向こうに行って死にたいと思いますねえ。自分のうちですから。帰りたいですよ」 だが、そのとき、富岡町はどうなっているだろう。お孫さんは、富岡に新たな仕事を見つけることができるだろうか。それとも、富岡は、お年寄りが目立つ町になっているだろうか。 ここでも、仮設のコミュニティの絆をつよめること、互いをどう助け合うかが、焦眉の課題になっている。有線放送の設備を整えること、冬場に備えて消火器を置くよう要望もしている。 だが、それと並行して、「5年先」の町のビジョンを描くことも、必要ではないだろうか。ふつうの震災であれば、もと住んでいた町に復興住宅を建て、そこに戻ることが当然の前提になっている。今回の場合、大津波の被害が大きかった岩手、宮城の沿岸部では、集団で高台に移転することも多いだろう。だがそれでも、元の町に近い姿に復興するという道筋に、異論は少ないと思う。 原発事故の場合、悩ましいのは、その道筋が見えないことだと思う。 大規模除染が進めば、復帰の見込みは高まるが、それまでの数年間、若者はどこかに仕事先を見つけねばならず、子どもたちは教育を受けねばならない。異郷に暮らしの拠点を築けば、元の場所に戻るのは次第に難しくなる。 他方で町は、仕事先を確保し、若い世代が戻ってこなければ、活気ある賑わいを取り戻せないだろう。戻れたとして、その町をどう再生に向けて立ち上げていくのか、政治はそのために何ができるのか。今のうちから考えておかねばならない問題だろうと思う。 写真は上から 角一實さん(右)、恵子さん親子 富田町の仮設住宅 富田町には、業者によって仕様の違うさまざまな仮設が立ち並ぶ |
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