2011年7月11日(月)記 11日、福島県須賀川市に入った。ここは福島県のほぼ中央に、国道4号をはさんで東西に伸びた丘陵地に広がる人口約8万人の市で、かつては二階堂氏の城下町、その後も奥州街道の宿場町として栄えた。松尾芭蕉も「奥の細道」で8日間滞在したという。 この地を訪ねたのは、今回の大震災で、「内陸の津波」として知られるようになった藤沼湖の決壊跡を見るのが目的だった。 旧長沼町にあるこの湖は、1949年、灌漑用に作られた溜池で、高さ18メートル、幅133メートルのダムが水を堰きとめる仕組みだった。周囲には温泉やキャンプ、パーク・ゴルフ場もでき、市民の憩いの地として親しまれていたという。 3・11の震災によって、その一部が決壊し、湖の150万トンの水が樹木を根こそぎ薙ぎ倒し、「津波」となって迸った。 このため、江花川上流の河岸に近い集落が襲われ、6人が亡くなり、2人が行方不明になった。うち一人の女子中学生は4月末、約40キロ離れた二本松の阿武隈川で遺体になって発見された。残る1歳の幼児は、いまだに行方不明だという。 案内をしてくださったのは、5期市議をつとめる地元の水野敏夫さん(62)だ。 藤沼湖は、見渡す限りの野草が生い茂り、広大な緑野に見えた。つい数ヶ月前は、一面が泥土で、その植物の生命力の烈しさに、水野さん自身が言葉を呑んだ。 決壊したのは、その北端の尖った部分で、水は取水口から細々と流れる小川の流路に沿って、鉄砲水のような土石流の濁流となって、急な山道を押し流したと見える。この溜池の受益面積は865ヘクタールに及んだというから、 農業振興のためには、おおきな効果があったのだろう。 江花川下流でも、橋が押し流され、川の沿岸には木っ端や泥土が散乱しているのを見た。ダム放流や津波と違って、決壊は予想していなかったろうから、防災無線の準備もなかったろう。突然の出水に、人々が逃げる間もなく巻き込まれて亡くなったことは、改めて記憶に刻み、ご冥福をお折りしようと思った。 本来なら、新聞の一面のトップになるような規模の災害だが、今回の東日本大震災の被害の大きさに隠れ、その悲劇の全容は、十分には伝わっていない。 須賀川市では、藤沼湖の決壊を含め計10人の命が失われ、全壊は383棟、大規模半壊130棟、半壊627棟の被害を出した。内陸部の震災としては、相当に大きな被害だ。しかし、その実態は、沿岸部の被災や福島第一原発の被害の陰に隠れ、あまり注目を集めてはいない。しかし、こうした溜池を抱える自治体は全国に数多いはずだ。この教訓は、なんとしても将来の減災対策にいかしたいところだ。 水野さんに、須賀川市役所に案内していただいた。震災で壊滅的な被害を受け、市役所はもう使えなくなった。近くの市体育館や支所などに機能を分散し、かろうじて行政機能を維持している。 市の中心部に近い和田地区では、階段状の地形に並ぶ住宅19棟の断層がずれ、多くの住家が住めなくなっていた。側溝が上下、左右に大きくずれ、地盤がすさまじい力で歪曲されたことを物語る。 私がここでいいたいのは、東日本大震災の「災害像」の把握のむずかしさだ。関東大震災では「都市型火災震災」、阪神大震災では「都市型震災」というおおまかな区分ができたが、東日本大震災では、震災と大津波と原発事故が絡む複合型震災で、しかも仙台などの都市部と、沿岸、中山間地を巻き込む広域の災厄になった。 復旧・復興にあたっては、どのような「災害像」を措定するかによって、結果は大きく違ってくる。「大津波震災」か、 「原発震災」か、どの災害を防ぐかによって、重点の置き方が自ずから変わってくるからだ。私は、今はあまりに「原発震災」に「災害像」が偏り、しかも「津波」という技術的側面にのみ、注目が集まりすぎているように思う。もちろん、「原発震災」こそ、今回の東日本大震災が突きつけた最大の試練であることはいうまでもない。ただ、その大きな議論の網目から漏れる無数の災害の態様をきちんと記憶し、将来の防災に役立てることも、同じように必要なことだと思う。 水野さんに、そうしたことを、教わった。 写真は、 1 藤沼湖の跡地に広がる雑草(右)と決壊地点(左) 2 決壊地点を眺める水野市議 3 使えなくなった市役所 4 断層が大きくずれた和田地区 |
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