2011年6月23日(木)記 19日に一橋大で開かれた3.11研究会では、首都大学東京の山下祐介准教授が、「周辺からの震災論、東北からの震災論」という題で報告をした。 山下さんは、今年5月に首都大学東京に移るまで、弘前大学で教え、青森をフィールドに研究してこられた。専攻は都市社会学、地域社会学など幅広いが、雲仙普賢岳、阪神大震災など災害の調査研究も豊富だ。青森では、過疎研究もして今にいたっている。 山下さんは、「中心ー周辺」というモノサシを使って、いま起きている震災のありようを考えようとしている。今回の震災が「東北」で起きたことの意味を、東京からの視点ではなく、地域と東京を往還するなかでとらえようとする立場だ。メディア報道が、圧倒的に「東京発」に傾いているいま、そうした視点は貴重だという気がする。ご本人の了解を得て、その内容をご紹介したいと思う。 山下さんはまず、今回の震災でとった行動から報告した。 震災の日は、出版予定の「白神学2号」の原稿作成の仕上げをしている最中だった。しばらくは受験生の対応などに追われていたが、3月22日、阪神大震災で一緒に研究していた大阪大、京都大の社会心理学チームが青森を訪れた。彼らは、「支援は南方から入るので、被災地の北側が手薄になるだろう」と見当をつけ、青森から岩手に入ることにしたのだった。 23日に、その先遣隊から電話があり、岩手北方の野田村に支援をしてほしい、という要請があった。 山下さんらは、その日に開かれた弘前観光関係者の集まりで支援を提案し、「津軽衆有志野田村支援隊」ができた。 これが新聞で報道され、28日には弘前市長と面談。29日には企画部長と現地入りし、31日には市職員を野田村に派遣するというスピーディーな展開になった。一方、山下さんらは3月末に大学にボランティア・センターをつくり、4月に多くの市民・学生を野田村に送りだした。4月27日には、野田村の人々を「弘前さくらまつり」に招待して交流を深めた。 これは典型的な「対口支援」である。 まず市民有志が立ち上がり、マスコミを通じて支援を呼びかけ、行政が動く。役場は役場を支援する一方、それと協同するかたちで、大学や市民がボランティアに入る。 ふつう行政は、被災地からの要請がなければ動けない。そこを市民が先回りして現地でニーズをつかみ、マスコミを通じて支援自治体にはたらきかける。それぞれの役回りと限界を知ったうえでの協同関係だった。 この経験を通して山下さんは、「災害支援」ではなく、「支援を通じた交流」が大切ではないか、と考えたという。 災害支援では、どうしても「中心ー周辺」だとか、「支配ー従属」という関係に縛られがちだ。今の災害対策の仕組みでは、中央政府ー都道府県ー市町村という流れで支援が行き渡ることになっている。「要請」がなければシステムは動かないし、地元市町村は、「中央からどうやって金をもらうか」ということに傾きがちだ。 中央からの力に頼らず、自分たちの間で助け合う。それを、「交流」というキーワードで考えたい、というのが山下さんの原点となった。 こうした考えの背景には、「東北」を襲った今回の震災が、これまでとは違った質の打撃をもたらしたという研究者としての山下さんの問題意識があった。 東京に赴任してから、山下さんは、これほどの災害にもかかわらず、人々が、どこか「他人任せ」でいることに違和感を覚えたという。 国や政府がなんとかしてくれる。 経済大国だから、なんとかなる。 専門家や技術者がなんとかしてくれる。 国家、経済大国、科学という「中心的価値」に縛られ、地方主権、くらし、日常知という「周辺的価値」が、いちじるしく衰えているのではないか。 どうしてこんなことになったのか。山下さんは、ここで、「広域システム」という考えかたを提起する。 「広域システム」とは、グローバル経済、物流、エネルギーの循環をふくめ、広域にわたって人々の安心・安全を確保するシステムを指す。 以前なら、地方では水や食糧を自前で調達し、身のまわりの生活は自分で確保する傾向が強かった。災害が起きても、インフラは自分たちで建て直し、立ち直りも早かったろう。しかし、生活が便利で快適になった反面、いざそのシステムが崩れると、再建や復旧にはとほうもない手間と時間がかかる。 「広域システム」への依存が、「中心的価値」への信奉を促し、どこか「他人任せ」の風潮を呼び込んでいるのではないか。 近代以降の東北は、「貧しい、遅れた地域」とみなされる反面、「中心」を志向しながらも、自分たちの独自の文化の核を保ち、仲間内で団結する傾向があった。 ところがこの20年間、こうした傾向は急速にうすれ、東北は変わった。 山下さんはその変化を、人口動態で説明する。 全国の人口構成をグラフにすると、山は二つある。団塊の世代と、団塊ジュニアの世代である。 しかし、青森などの人口構成は、これと異なる。昭和一けた世代が突出し、団塊、団塊ジュニアとともに三つの山をなしているのである。 これは何を意味しているのか。ここで山下さんは再び「広域システム」の考えを参照枠にする。 昭和一けた 広域システム形成前の世代 団塊 広域システム形成過程の世代 団塊ジュニア 生まれたときから広域システムが当然の環境だった世代 東北地方で調査すると、山間などの「限界集落」では、圧倒的に、昭和一けた世代が多い。しかし、その長男、長女は、車で30分ほどの地方都市に住み、親元を訪ねてくることが多い。だが、彼らの子供の世代は、大都市や首都圏などに移り住み、当分帰ってくることはない。 2010年代には、昭和一けた世代が80歳代になり、東北が保ってきた「独自性」は大きく変わる。その時期に、今回の震災が起きた。 では、今回の震災で、復旧・復興の主体は、誰なのか。昭和一けたのお年寄りが主体なのか。地方に残った団塊や団塊ジュニアなのだろうか。 震災前から、東北では過疎化、高齢化が進んでいた。学校統廃合、医療過疎、交通網の寸断、買い物難民など、若い世代が住みにくい環境だ。生まれたときから「広域システム」が当たり前の環境に育った若者たちに、「故郷に帰れ」といっても無理がある。 山下さんは、そうした大きな流れのなかでも、地方に残って暮らす若い世代をいかに支え、活性化するのかが必要だ、という問題を提起して報告を結んだ。 今回の震災では私も、「どこを焦点に、どのレベルを目指して復興するのか」、その議論が大切だと考えてきた。そう考えた直接のきっかけは、震災当初、取材で同行した自治医大同窓生の医師が語った言葉だった。 「この地域ではもともと医療過疎が続いていた。医療態勢がニーズに追いついてなかった。もちろん、ニーズに合わせて、必要なだけ支援ができればいいが、そうもいかない。地元医療機関の立ち直りをはばむことにもなりかねない。どこまで医療支援を続けたらよいのか」 すでに過疎化していた水準に戻すことが復旧なのか。それとも、そうではない水準を切り拓くことが復興なのか。 実は前回ご紹介した赤坂憲雄さんのご発言は、山下さんの報告を受けた議論でだされたものだ。中央集権から地方分権へ。原発から再生可能エネルギーへの転換は、「中心ー周辺」という価値軸を変える考え方といえるだろう。 震災後の東北を考えるためには、震災前日まで、東北はどのような土地であったのかを知ることが大切だろう。「この震災の災禍を、日本経済や社会の今後に、どういかすか」という「中心」の発想だけでは、これまでと同じことを、また繰り返すだけに終わるだろう。 「東北から考える」ということの大切さを、考えさせられた。 写真は山下祐介さん |
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