2011年6月21日(火)記 6月19日、一橋大学で開かれた「3.11研究会」に参加した。 これは、学習院大の赤坂憲雄教授、慶応大の小熊英二教授が呼びかけ、東北にゆかりの深い若手研究者が集まって、「3.11」のもたらした意味、今後のありかたを考える会合である。今回は五回目だった。 「東北学」を提唱した赤坂さんには、昨夏、「遠野物語」をめぐる新聞コラムの取材で、お目にかかった。 先月上京したときに、東京の書店で、雑誌「仙台学 vol.11 東日本大震災」(荒蝦夷刊)を手にし、ぜひお話をうかがいたと、赤坂さんにご連絡をした。 雑誌には、赤坂さんをはじめ、伊坂幸太郎、熊谷達也、高橋克彦さんら、東北を拠点とする人々が、3.11の衝撃をそのままに記録する渾身の文章を寄せている。 これは、「東北学」を提唱してきた赤坂さんのお仕事への真摯な応答であり、ひとつの結実とも思えた。3.11の意味は、「東北」の歴史性や地域性を抜きには考えられない。そう痛感していたときだったので、この雑誌は私にとって、ひとつの道しるべのように思えたのだった。 「6月19日に会合があるので、どうぞ」というお誘いを受けて出席したのが、冒頭の会だった。 民俗学に新しい分野を切り拓いた赤坂さんと、気鋭の社会学者小熊さんの取り合わせには、少し意外な印象があった。聞けば、小熊さんが編集者だったころからの、四半世紀にもなるお付き合いなのだという。 実際にお二人を前にすると、その柔軟な考え方や自由な発想、鋭利な論理の組み立て方などに共通の雰囲気があって、いかにも自然で屈託のない空気を感じた。これなら、若手の研究者も臆せず、伸びやかに発言し、それぞれの着想を掘り下げていけるだろうと、うらやましく思った。 ここでは、ご本人のお許しをえて、その研究会の場で赤坂さんが発言された内容をご紹介したいと思う。というのも、私自身、事前には予期していないことだったが、この時期の赤坂さんは、学者という以外に、今後の復旧・復興の道筋について、かなり重みのある立場にたっておられたからだ。 赤坂さんは、菅政権の復興構想会議のメンバーであると同時に、県立博物館長の立場で、福島県の「復興ビジョン検討委員会」のメンバーにもなっている。いわば政府と福島の双方に、復興構想を提言する立場にあるわけで、こうした人はほかにいない。 たまたま、15日には福島県の委員会が基本理念の骨格をまとめ、19日には朝日新聞が、政府の復興構想会議の第一次提言案を詳報した。その日の会合で、双方にかかわった当事者の赤坂さんから、いきさつをうかがうことができた。 赤坂さんは、被災地の立ち上がりが予想以上に困難であることを前置きしたうえで、「あえて思いっきり楽観論を語りたい」と切り出した。 席上、二枚のコピーが配られた。いずれも6月16日付の福島民報、福島民友の一面トップ記事で、県の復興ビジョン検討委の基本理念を伝えていた。 民報の見出しは、「『脱原発』打ち出す」、民友の見出しは「『脱原発』が基本理念」である。 「地元紙の一面に、『脱原発』という活字が踊ることは、想像もできなかった」と赤坂さんはいう。それほどまでに、 この40年間、福島は原発に縛られ、原発に依存する体質が色濃かったという。 検討委員会で赤坂さんは冒頭、「第二原発まで廃炉にしないと、そこから出発しないと、世界から、『福島はまだ懲りないのか』と見捨てられるだろう」と再生可能エネルギーに思い切って舵を切るよう提言した。 赤坂さんの父親は福島に生きた人だ。赤坂さん自身、山形に長く赴任し、東北を広く駆け回ってこられた。だが、 「半分はよそ者」という自覚なしに、地元で微妙な距離を取り続けることは難しいのだろう。今回も、「赤坂があおって 脱原発に傾いた」といわれることを危惧し、それ以上、発言することはつつしみ、距離を置いて、地元の有識者が自らどう決断するのかを見守った。 最終的に検討委員会は、「原子力に依存せず、再生可能エネルギーや省エネ、リサイクルを強力に推進する社会づくりを目指す」という基本理念をまとめた。これまでの県の姿勢を大きく転換するビジョンである。 「幸か不幸か、私は検討委では中心にはいなかった。福島の人々が、自ら選び取った決断だった。福島は、原発事故でそこまで追い込まれ、新しい社会のデザインを築く以外に選択の余地はなかった。政治は、意地をはってでも、社会の新しいビジョンを示し、カケラでもいいから、希望を語るべきだと思う。追い詰められているからこそ、新しいデザインを選べるのではないか。あえて福島から、希望や夢を語っていきたいと思う」 福島では長く、原発は産業や雇用の「基幹」のひとつとして位置づけられてきた。しかし、実際によく見てみると、 原発にかかわる製造業は、地元では皆無に近い。 あるのは、原発で作業する1万人の雇用と、電源交付金、それに固定資産税、法人税だけだ。だが交付金には期限があり、固定資産税も償却で目減りする。新たな交付金をもらうには、原発を増設するという「依存」が強まってしまう。 「再生可能エネルギー型社会のポイントは、地域分権型社会ということだ」と赤坂さんはいう。 風力発電なら、風車ひとつに1〜2万個の部品が必要で、地元で製造することもできる。2000キロワットの発電で年間1億円の収入があれば、地域を持続的に発展させる足場になるだろう。再生可能エネルギーはけっして夢物語ではない。そう赤坂さんはいう。 では、政府はどうなのか。先の朝日新聞の報道によると、復興構想会議の第1次提言案に、「再生可能な自然エネルギーの導入を促進。被災地の東北地方で利用拡大を図り、特に原発事故のあった福島を『先駆けの地』とする」という一項が設けられた。 赤坂さんによると、復興構想会議では、当初、菅首相から「原発問題」を議論からはずすという意向が伝えられたが、特別顧問の梅原猛さんらが口火を切り、赤坂さんらも反対し、主要議題のひとつになった。医療問題など、当初に赤坂さんが提起した案はほとんど提言に盛り込まれたという。 東北地方では被災前から、第一次産業が衰退し、高齢化・過疎化が進みつつあった。今後、その社会が立ち上がるには、潜在力をひめた再生可能エネルギーや、介護など、新たな産業をいかすしかない。そう赤坂さんは考えている。 お話をうかがっていて、私は、福島県復興検討委と政府の復興構想会議が、くつわを並べて「再生可能なエネルギー促進」を打ち出した意味は、決して小さくない、と感じた。 そうでなくとも、「国策」として強力に国が推進し、政権交代後の民主党ですら、増設を唱えてきた原発である。その「国策」を変えることは、たいへんな抵抗と、反対にあうことだろう。 このごろ、先に「辞意」を表明した菅首相が、「再生可能エネルギー促進法案」を持ち出して延命をはかっている、という見立ての報道を眼にする。 すべてを政局がらみにする政界にはうんざりするし、その側面が強いことも、また事実だろう。しかし、報道は、政局の裏にある重要な問題から、眼をそらすべきではない、と思う。 菅首相がいう「再生可能エネルギー」の議論にあたっては、浜岡原発に限らず、全国の原発を今後どうするかについて、根本から向き合うことが避けられない。 別に菅首相が辞任してもかまわない。重要なことは、民主党のなかで、この問題についてどう考えるのか、後継者を選ぶのなら、その政策論争をたたかわすべき時期だろう。野党の自民党も、民主党の内紛に乗じて「菅おろし」を考えるのではなく、自民党が進めてきたこの積年の問題にどう取り組むのか、それを明らかにして、政策論争で民主党を追い込むべきだろう。 写真は小熊英二さん(左)と赤坂憲雄さん |
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