201年6月3日(金)記 朝日・日経・読売の3社は、ネット上に、主要ニュースを掲載する「よみくらべサイト あらたにす」を共同で運営している。 平日は、そこでさまざまな識者が「新聞案内人」として登場し、ニュースにまつわるコラムを交代で執筆している。 今日のコラムは、「双葉病院 院長が語った」という長文の記事で、元読売新聞編集委員のジャーナリスト、勝方信一さんによる文章だった。 この日のコラムは、福島第一原発近くにあった大熊町の双葉病院と、その系列の介護老人保健施設の避難の実態を、勝方さんが院長や医師に直接取材した結果をもとに、克明に再現したものだった。 双葉病院と老健施設をめぐっては、避難のさなかに51人が亡くなると報じられ、とりわけ、一部の患者に医師が付き添っていなかったり、病院に患者を放置したりした、などの報道が続いた。 「医師が患者を置き去りにして逃げた」という記事の印象は、ネット上では関係者によって一部修復されたが、まだメディアすべてが、当初の報道を検証したわけではないと思う。 亡くなられた方々のご冥福のためにも、医療スタッフの方々の名誉のためにも、ことの実態を明らかにする必要があるのではないか。 私がそう感じるのは、直接はまだ双葉病院関係者には取材していないものの、その避難にまつわる話を、南相馬市で関係者から何度か聞いたからだ。 疑問の多くは、「なぜ患者らは、スクリーニングを受けに南相馬市に来たあと、福島、郡山を経由して、南のいわき市まで行かねばならなかったのか」という点に集中していた。疲弊しきっているのに、患者さんらは、病院を出てから12〜14時間もバスに揺られた。しかもたどり着いたのが、医療施設のない、いわき市の避難所である高校の体育館だった。これは、病院の判断ミスではなく、避難において、何かまだ知られていない複雑な事情があったと思わざるをえない。 後で書かせていただくように、原発近くの施設からの避難が困難をきわめたのは、双葉病院だけではなかった。 勝方さんの貴重なご報告を読めば、「医師が患者を置き去りにして逃げた」という当初の印象が間違っていたこと、そして院長らの証言を信じれば、病院スタッフは、当時与えられた環境のなかで、死に物狂いで奮闘していたことが浮かび上がる。少なくとも私には、そう思えた。 詳しくは、勝方さんのコラムそのものをご覧いただきたいが、その内容を、時間経過に沿って要録しておきたい。 〇双葉病院の避難経過(勝方さんの聞き取り報告による) 3月11日 地震発生 入院患者 339人 職員 約60人 医師 4人(院長含む) 女性が多い事務員らは帰宅させる。医師、看護師らは残る。 3月12日 「原子炉が危ない」と防災放送で避難指示。 患者を町役場に避難させたが、町職員の要請で全員病院に帰る。 救助のバスに歩ける患者209人と職員らを乗せる(医師3人付き添い) 院長だけが残る。 病院に重症患者130人、近くの老健施設に97人が残される。 残った関係者は院長、施設長の医師、事務課長の3人。 施設長ら2人が隣の双葉町に救出要請に出かけ、自衛隊に遭遇、窮状を訴える。夜、自衛隊員、警察 官の2人が訪れ、「あすの朝、くる」といい置いて帰る。 院長ら、点滴や痰の吸引などに取り組む。 3月13日 救援なし。院長が要請のため外に出て、消防車に出会い、救出を訴える。 午後、再び外に出てパトカーに出会い、状況を説明。防護服姿の警察官に、 「車から降りるな、窓も開けるな」と指示される。 午後5時、地元署長と署員2人が来院。署長は無線がつながらず、別の場所に向かう。代わって副署 長ら10数人の警察官が到着、ワゴン車に泊り込む。 12日に避難した患者、医師、職員らは三春町で一泊し、いわき市の系列病院に到着。 3月14日 自衛隊のマイクロバス8台前後が到着。施設の97人全員を乗せたが、車が足りず、患者130人のう ち、38人だけが乗る。 バスは北上し、南相馬市原町区の県保健福祉事務所でスクリーニングを受ける。 バスは西に向かって福島、さらに郡山を経て大熊町の南約40キロにあるいわき市に到着。 走行距離約230キロ、病院を出て12〜14時間が経過。 患者は医療設備もない、同市内の高校の体育館に運び込まれる。先にいわきに着いていた双葉病院 の医師ら5人が体育館に駆けつける。 患者92人が残される。自宅から出勤してきた医師らもスタッフに加わる。 バスが出たあと、自衛隊は責任者1人、警察官10数人が残る。しかし午前11時すぎに3号機で水素 爆発の報。自衛隊責任者は「オフサイトセンターへ行って、指示を仰がなくてはならない」と職員の車を 借りて病院を離れる。救援なし。 3月15日 午前1時、副署長が病院に飛び込んできて、「緊急避難だ。すぐに車に乗れ」と叫ぶ。病院にいた院長 ら病院スタッフ4人と警察官全員を乗せた車は、サイレンを鳴らして避難。患者が取り残される。 しばらくして「避難解除」の指示。警察の車で病院に向かうが、また「緊急避難」の指示が出る。 朝、患者の救出に向かう自衛隊のルートが判明し、途中で待つ。そこへ4号機水素爆発の報。「今は 病院に戻れない」と警察官に説得される。車がなく、自衛隊がくるかどうかもわからない。院長は任せ るしかないと思い、いわき市に向かう。 この日、自衛隊が残った患者を救出したが、一連の経緯のなかで45人とも51人とも報じられる患者 が亡くなる。双葉病院内でも4人が亡くなっていた。 (ここで要録終わり) ここで、私が別途入手した、浪江町にある特別養護老人ホームの避難経過資料をご紹介したい。関係者への直接取材はまだ済んでいないため、固有名詞は伏せるが、避難にともなう混乱の様子はおわかりいただけると思う。 なお、この施設は、福島第一原発から半径3キロ圏内にある。 〇特別養護老人ホームの避難経過(文責・外岡) 3月11日 地震発生。 職員を交代で様子を見に帰らせる。 午後5時半、夜勤者の出勤確認、日勤者の一部残る。 午後8時50分 半径2キロの避難要請 午後9時53分 半径3キロ避難指示 半径3〜10キロ屋内退避 3月12日 午前7時 浪江町役場に毛布・布団を貸す 午前9時 浪江町役場から、A病院と介護老人保健施設の一部を避難させてほしいと要請。 午前10時半 老健の100人と職員 A病院の20人と医師、看護師 B病院 67人(付き添いなし) が避難の予定。 午後6時25分 20キロ圏内の避難指示 職員態勢は夜勤者含む42人。 午後10時 老健の人々、南相馬市原町の病院、施設にワゴン車でピストン輸送 午後11時 B病院の37人を受け入れ。 この日の入所者 特養 入所者 150人 職員 42人 A病院 30人 一般 16人 B病院 37人 計 275人 3月13日 午前8時半 浪江町役場から、避難について「バス8台が午後1時に着くので郡山に行く」とのこと。 午後1時 予定のバスは到着せず。A病院は透析時間が迫っているため、30人が病院に戻る。 午後3時 職員がバス会社に連絡をとるため公衆電話を探しに出る。パトカーをとめ、本部への連 絡を要請。 午後5時 自衛隊を呼びとめ、食事がないことを説明し、炊き出しを要請。 午後6時半 自衛隊からご飯。おむすびにして出すが不足。 この日の入所者 特養 入所者 150人 職員 40人 一般 17人(うち3人寝たきり) B病院 37人 深夜、妊婦と新生児を救急搬送 3月14日 午前4時半 双葉署から、「A病院と特養関係者を15条により保護し、川内村の自衛隊が搬送する」と の連絡。搬送先などを質問するが、何も聞いていないのでわからない、とのこと。 午前7時半 状況が見えないため職員が津島支所(浪江町本部に向かう。 午前10時 バス会社と連絡をとるため、公衆電話を探しに出る。 町長にあって事情を説明。「本日午後4時半に自衛隊搬入が決定してある」との答え。食 事が取れないことを話し、パンを大袋3個に入れて帰園。途中、3号機が水素爆発したの で町へ入れないといわれたため本部に帰って交渉し、防護服をもらってパトカー先導で施 設へ。 午後9時 県警のバス2台到着。 1台をB病院 1台を残り患者と特養入所者の1部にあてる。 ここで、B病院患者、いわき市へ 特養施設入所者は南相馬市の相双保福(スクリーニング)へ向かう。 折り返し運転で全員の搬送完了。 午前1時半ころ 避難完了で施設に施錠 3月15日 午前2時半 相双保福でスクリーニング 搬送した県警バスは使用目的があるので、全員乗せ換えを指示される。健康状態を考慮 してほしいと頼むが聞き入れてもらえず。広島県警バスで西郷村に向け出発。 午前9時 西郷村に到着。 午後2時 一段落し、職員昼食 到着人数 入所者 141人 職員 34人 一般 7人 その後職員は帰宅、合流などがあり、36人 (ここで特養の項、引用終わり) 後の図をご覧いただきたいが、双葉病院の入院患者は、大熊町から、まず南相馬市に行き、そこから時計と反対回りに、福島、郡山を通って、いわき市に向かった(青色で塗った行政区を左回りにたどる)。 当時は、福島第一、第二原発の事故で、南方面に直行することができなかったにしても、なぜいったん北側にある南相馬に行ってスクリーニングを受け、そこから大迂回する必要があったのか。それとも、福島、郡山で受け入れ困難という事情があったのか。 浪江町の特養施設にしても、いったん北側の南相馬市に向かい、深夜にスクリーニングを受けてから、西郷村に向かうという手間をかけている。 この時期、受け入れ側によっては、スクリーニング結果を必要としていたことはわかるが、特養の入所者のように、長距離の移動が困難な方々に、深夜の検査を強いるのは、あまりに過酷だったのではないか。(特養入所者が通った行政区をオレンジ色で表示) いずれにせよ、原発事故による避難の経過と、いったい何が起きたのかについて、被災地の視点からの検証が必要だろうと思う。 |
<< 前記事(2011/05/27) | ブログのトップへ | 後記事(2011/06/21) >> |
タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
---|
内 容 | ニックネーム/日時 |
---|
<< 前記事(2011/05/27) | ブログのトップへ | 後記事(2011/06/21) >> |