外岡秀俊 3.11後の世界

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help RSS 四川大地震から考えたこと

<<   作成日時 : 2011/05/06 11:59   >>

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2011年5月6日(金)記

 東日本大震災の被災地を訪ね歩いてよみがえったのは、1995年1月の阪神大震災よりは、
むしろ、2008年5月12日に発生した中国・四川省の大地震だった。

 四川大地震では、長さ100キロ、幅30キロの龍門山断層帯に、マグニチュード7.7のエネルギーが放出され、
8万7千人の死者・行方不明者が発生した。

 同じ逆断層型の地震だった阪神では、長さ40キロ、幅10キロ、Mは6.9。四川では、エネルギーでいうと、阪神の20倍近い規模だったことになる。

 四川大地震では、二度現地で取材し、あとに付記する3つの文章を書かせていただいた。今回、その記憶がよみがえったのは、いずれも広域にわたる大規模災害で、各地に取り残された被災者への救援・支援が、きわめて困難だったからだ。

 四川省は三国志の昔から、険しい山脈に取り囲まれた要害の地で、日本軍に対する国民党、中国共産党の反攻の拠点となり、旧ソ連との衝突をおそれた毛沢東は、軍需産業や重工業を、この盆地帯に移して有事に備えた。

 大地震は、成都の郊外にある都江堰から山側奥深くまで、ちょうど龍が動くように、長大な規模で大地を揺らした。
ちょうど学校は授業中の時間帯で、5千人以上の児童・生徒が犠牲になり、学校建築の「手抜き工事」が問題となり、当局がその報道を封じたことも問題になった。だが、そのことは、今は詳述しない。

 ここでも、山奥の行政機構は壊滅状態になり、救命活動は、「自助」か「共助」、やや遅れて、人民解放軍に頼るしかなかった。当時日本では、人民解放軍の救援の遅れが批判されていたようだが、私が現地で取材した限りでは、
平時の日本では想像が及ばないほど、被災の範囲は広く、被害は甚大だったように思う。実際に、激しい被災地4ヵ所を訪ねてみると、主要道路は寸断されており、車で数時間かけて、軍がようやく確保した迂回路をたどるしかなかった。沿道の山々は、すべて表土が樹木ごと崩れ落ち、白い地肌がむき出しになっていた。「山が裂けた」「山が消えた」という言葉を多くの人から聞いたが、中国にありがちの誇張ではなく、それが現実だった。

 四川大地震で目をみはったのは、被災後の「対口(たいこう)支援」だった。
 中国政府は震災後、20の省・市を被災市・県に割り振り、1対1の支援をする仕組みをつくった。
 たとえば、上海市は被害が大きかった都江堰市を、広東省は汶川県を、山東省は北川県を直接支援するという
やりかただ。いずれの被災地でも、支援省・市に感謝する横断幕が掲げられ、支援は活発だった。

 地元の自治体が被災し、隣接地も被災する大規模災害で、このやりかたは効果がある。特定の自治体を支援することで、救援もれを防ぐことができるし、特定自治体への支援が重複することもなくなる。長期にわたって復旧・復興を支えることで、人のつながりも深まり、救援自治体は、災害の実態と、被災時の備えについて学ぶこともできる。
 
 中国は、各省、各都市を競わせ、その首長や共産党幹部から、実績に応じて中央政治局員に登用するシステムをとっているため、「対口支援」は、一党独裁の国でしか成り立たない、という見方もあるだろう。

 しかし、今回の東日本大震災でも、同じ仕組みが作動している。
 滋賀、京都、大阪、兵庫、和歌山、鳥取、徳島の2府5県が参加して、昨年12月にできたばかりの「関西広域連合」だ。3月13日、初代連合長の井戸敏三兵庫県知事は、「広域連合委員会」の緊急招集を指示し、同日夕方に、鳥取を除く6府県知事が兵庫県に集まった。参加した全知事が井戸氏の指示に従うことを認め、兵庫県が提案した「対口支援」を決めた。

 その結果、大阪・和歌山が岩手を、兵庫・徳島・鳥取が宮城を、京都・滋賀が福島をそれぞれ支援することが決まり、物資や職員を派遣することになった。

 関西広域連合は、国の出先機関を廃止し、国から国道や河川管理などの権限、財源、組織を移管することを目指して発足した。いわば、中央に集中する権限を、地方に分権する動きといってよいだろう。

 これまで、市町村レベルでは、「広域市町村圏事務組合」があり、少子高齢化の時代に、保育や介護、医療などで連携する動きがあった。これは、高度成長期に中央政府が強大な権限を握り、政治力によって各地にサービスを
「均霑(きんてん)」させるという方式が行き詰まったあらわれともいえる。小泉政権時代の「集中と選択」という掛け声のもとに、医療など各地の国の行政サービスは弱まり、過疎化が進んでいた。各自治体単独では、もう住民に十分なサービスを提供することは難しい。より広い範囲で「共助」の仕組みをつくり、互いの力を結集しようという動きともいえる。「関西広域連合」は、都道府県レベルでははじめて、こうした「地方分権」路線を推し進める仕組みとしてできた組織だ。

 今回の震災でも、この「対口支援」を、より広げるべきではないだろうか。
 震災後の支援のあり方を見ても、中央政府による一律・広域支援には限界がある。自治体への職員派遣や支援は、同じ地方自治体の方が経験も知識も豊富だ。何よりも、「相手の顔が見える支援」は、被災地にとっても、救援自治体にとっても、大きな力、支援のエネルギーになるのではないだろうか。


 実はこの「対口支援」には先例がある。89年にベルリンの壁が崩壊し、翌年に西独が旧東独を吸収するかたちで
発足した統一ドイツだ。旧西独は「連帯税」を徴収し、各自治体や学校は、それぞれの「対口」にあたる旧東独の自治体、学校の「パートナー」を割り振って、復興を支援した。

 もし、この方式を取り入れるなら、たとえば日ごろ電力の供給を受けている東京は福島を、激しい震災を体験した兵庫県は宮城県を、神戸市は仙台市を支援するなど、長期の取り組みが可能になるのではないだろうか。

 いま必要なことは、被災地が孤立せず、全国の全自治体が、「助け合いはお互いさま」という気持ちで、互いを支えあうことだろうと思う。


  付記

1 2008年8月9日付記事(著作権者・朝日新聞)

   大雪害。チベット騒乱。聖火リレー騒動。そして四川大地震。「百年の夢」の実現を阻むかのように、中国ではトラブルや災厄が相次いだ。盛大な開会式の陰で、余波は消えていない。
 四川省成都に住む龔錦源さん(77)の自宅には、2枚の賞状が飾られている。
 1枚は今年4月、選ばれてアルゼンチンで聖火ランナーになった証明書。もう1枚は、5月12日の大地震で、勤め先の華西病院の患者を避難させたことへの感謝状だ。
 「震災の前後で聖火の意味は変わった」という。「はじめは五輪を祝う気持ちで『がんばれ中国』と聖火を迎えた。それが『がんばれ四川』に変わり、復興を励ます象徴になった。被災地では、そう受け止めています」
    ■  ■
 その時、看護師の李群華さん(39)は、共に夜勤を終えた工員の夫(42)と深い眠りについていた。
 7階建てアパートの6階。巨大な力が部屋をわしづかみにした。「起きろ」。夫が妻を引きずって浴室に押し込め、自分も飛び込んだ。
 砂煙がおさまると下の全階が崩れ落ち、6階の浴室だけが約4メートルのがれきの山に残った。夫婦が住む映秀は、震源に最も近い町だった。
 夫は左脚をがれきにはさまれ動けない。妻も負傷した左腕がはれ上がっていた。
 「助けを呼ぶわ」。妻はパジャマ姿で下り、駆けだした。雨が降り出した。
 ふだんなら跳べないフェンスを跳び越え、裏山まで素足で200メートルの急坂を駆け上がった。駐在兵4人に救出を求めたが、現場は余震で崩れそうだ。「助ける。でも今は危ない」。2時間待った。
 「私、行く」。妻は制止を振り切った。戻ると、がれきに埋もれたままの夫がいた。
 「おまえだけ逃げろ」
 「逃げるなら、一緒」
 とんでもない力だった。妻は一人でがれきを持ち上げ、夫を引きずり出した。傷ついた左腕をかばい、夫の全体重を右肩で支えた。夫の意識が薄れた。妻が怒鳴った。
 「天は私たち2人だけを助けた。生きなくちゃ、だめ」
 びしょぬれだった。30分で10メートルを引きずり、木の下に夫を横たえさせた。2日間、一睡もせずに夫や近くの重傷者を看護した。
 その間、医師の余益娟さん(42)も手当てにあたった。映秀に一つしかない病院が崩れた。午後の診療再開まであと2分の時刻で地震が起きたため、医師と看護師40人は外にいて無事だった。雨の中、徹夜で点滴や止血を続けた。
 住民約3万人のうち数千人が死亡。小学校は全壊した。次々に息を引き取る子供たち。かすかに生きている子を見ると、いとおしくて涙がこみ上げた。
 救援隊が駆けつけたのは3日後。余さんらが手当てした負傷者は千人近くに上った。
 開会式のこの日、全壊のアパートから脱出した李さん夫妻は成都市内のリハビリ病院にいた。夫は脚を切断せずに済んだ。「結果がどうあろうと決してあきらめない」。五輪選手も私と同じ気持ちじゃないかしら。妻はそう思う。
 被災地には、気力、体力の限界をかけて生き延びた無数のドラマがある。脚光を浴びることはない。だが被災者一人ひとりが心に、自分だけのメダルを持っている。


2 「傍観者からの手紙」(雑誌「みすず」)より
    
 「三国志」
 拝啓 錦江支流の南河の川面に赤や黄のネオンの光が映り、揺らめいています。酷暑の火照りを残した微風に吹かれていると、暗闇にチンチンと鳴る金属音が聞こえました。十元で耳掃除をする職人が、火箸のような棒を鳴らして、酔客に生業を告げる音です。

 四川省の成都では、飲食をしながら揉み療治や耳掃除をしてもらう客の姿をあちこちで見かけました。河畔で麻雀やトランプを楽しむ人々を見ていると、二か月余り前に四川省を襲った巨大地震が、幻と思えるほどです。
 いうまでもなく成都は、「三国志」のふるさと、劉備がひらいた蜀漢の都です。劉備は関羽、張飛と桃園で義兄弟の契りを結び、「「三分の計」を説く諸葛孔明を従えて蜀漢を興しました。しかし、その墓と伝えられる「武侯祠」が、孔明の諡である「武侯」を冠していることでもわかるように、庶民の敬慕の対象は、あくまで蜀漢の設計者にして丞相の孔明にありました。

 成都に来るまで私は、なぜ中国の人々が、短期で滅びた蜀漢をこれほど慕い、「三国志」に語り継いできたのか、不思議に思ってきました。軍事上は遙かに有能とされる実在の魏の曹操が、政権を簒奪して漢室にとどめを刺したばかりに、あれほど邪悪な姦雄として描かれるのは、やや不公平ではないかと思っていました。しかし武侯祠博物館を見て、その謎が解けました。勝手な思いつきですが、小説「三国演義」(小川環樹、金田純一郎氏訳、岩波文庫)に描かれた世界は、日本に例えれば織豊や家康が活躍した戦国時代に近く、物語のロマン性からいうと「忠臣蔵」に似ているような気がします。抜群の力量があるわけでもない劉備が、義侠心ゆえに多くの武人から慕われ、その死後も廉潔な孔明が忠義心を失わずに国を守ろうと奮闘した姿に、多くの中国人は理想を追い求めたのでしょう。

 さて今回の旅は、北京五輪を直前に控えた中国で、大地震の衝撃がどう波紋を広げているのかを探るのが目的でした。成都を一歩出て峻険な山に向かうと、震災の巨大な爪痕は今もなまなましいままです。
 蜀は古来から「天府の地」と呼ばれ、四囲を山々にかこまれた穀倉地帯として知られました。しかし、その地が豊かになったのは、秦時代の紀元前三世紀に蜀の太守李冰が水利施設の建設を始め、息子の李二郎がこれを完成させてからです。成都の北西五十キロにあるその都江堰を訪ねると、傷跡の残る大半の建物は無人で、商店は三分の二が閉鎖されたままです。人々は建物の近くに張ったテントで暮らし、膨大な数の建設が進む仮設住宅への入居を待つばかりでした。

 都江堰は、峻険な山並みが絶えて成都盆地が広がる境界にあります。岷江の急流が平野に躍り出る急所といえるでしょう。李親子はこの河の真ん中に、石を詰めた竹篭を積んで人工の中州をつくり、外江は遙か長江に向けて流す一方、内江を平野に引き入れて灌漑に振り向けました。しかも河が増水すれば、内江の水が堰を越えて外江に戻る仕組みを編み出し、洪水を防ぎました。劉備の死後、何度か軍事遠征に出た孔明が、兵が手薄でもこの地を守備隊に守らせたと伝えられるのは、都江堰が蜀の急所であったことを示しています。七0年代に新たな堰が作られたとはいえ、紀元前の工作原理が今も実用に使われている稀有な例でしょう。

 今回の大地震は、平野の境目にあるこの急所を直撃しました。堰は幸い無傷でしたが、周辺の都市部が壊滅的な打撃を受けたのです。河べりで食堂を営む高天数さんによると、震災直後、「地下を列車が駆け抜けるような地鳴りが聞こえ、誰もが立っていられず、近くの木にしがみついた」といいます。
 地震は、この都江堰から山岳部に向けて大きな傷を残しました。震源地に最も近い影秀鎮という町に向けて二十キロほど車を走らせると、岷江の両側に迫る急峻な山々の表面は無惨に抉られ、爪で裂いたような白い筋がいたるところに見えました。その数が半端ではありません。今回の取材で、「二つの山が一つになった」とか、「山が裂けて町が埋まった」という表現を聞きましたが、それは蜀で少年期を過ごした李白の「白髪三千丈」といった文飾表現ではなさそうです。

 映秀鎮では大半が瓦礫の山となった町は封鎖され、人民解放軍が外側に駐屯して復旧活動にあたっていました。生き延びた人々は仮設テントで野菜や日用品を売るなど、たくましく暮らしていますが、小学校はほぼ全壊し、中学校も大半が倒壊するなど、復興はもちろん、復旧すら難しい状態です。人口三万人の町で数千人が亡くなったといいますが、この町の現状は、死者・行方不明八万人近い今回の震災の縮図といえるでしょう。
 映秀はパンダの棲息地である臥龍自然保護区への中継地です。まったくの偶然でしょうが、孔明も若き日に「臥龍」と呼ばれたことを思い出しました。

 「震災無情人間有愛」。成都周辺の被災地ではいたるところに、復旧復興を励ますスローガンの看板が掲げられています。「山を揺るがすのは容易いが、川(四川)の人々を揺るがすのは難しい」という言葉もあります。中で最も多かったのは、「衆志成城」という語句でした。「皆が心を合わせ、城壁と成す」というほどの意味です。
 長く「三国志」を語り継いだ人々が、試練を前に、今も義侠と人情で心をひとつにすることを願いながら被災地を後にしました。
 
 3「傍観者からの手紙」より

   傍観者からの手紙      外岡秀俊  「中国・蜀と雲南のみち」
 拝啓 河原に叢がるススキの穂が一面、上下に大きく波打ち、銀白色にどよめいています。日射しは厳しいのに、九月の四川省には早くも澄明な秋の気配が漂っていました。

 北京五輪を終えてその後が気になり、大地震に見舞われた四川省の被災地を再び訪ねました。五輪報道に掻き消されてすっかり見えにくくなっていますが、九万人近い死者・行方不明者を出した震災の爪の切っ先は、今も人々の暮らしに深く食い込んだままです。

 今回の旅で、私は四つの地域を訪ねることにしました。五月十二日の地震後に現地を視察した温家宝首相は、厄災を将来にわたって記憶するため、被害の大きな地域に地震遺址博物館を造るよう指示しました。その候補として名乗りをあげたのが四地域です。遺址博物館といえば聞こえはいいのですが、もう再建を諦め、封鎖して保存するほかないほど被害が甚大な地域です。

 第一は、先にも訪ねた震源地に近い映秀鎮。四方を山並みに囲まれた町は、軍が半壊の建物をすべて爆破し、見渡す限りの瓦礫の野になっていました。死者たちを葬った丘から市街を見下ろすと、全壊した小学校の跡地に弔旗のような赤旗が小さく翻って見えます。

 第二は成都市虹口深渓溝。丹沢の渓谷のように深い山並みの切れ目に沿って、川魚を供する茶店や旅館五十軒が連なる景勝地でした。一本道は崖崩れで寸断され、あちこちに小屋ほどの大きさの岩が転がっています。私が車で通り抜けた直後に大雨が降り、また岩が道を塞いだ、と後になって聞きました。

 第三は綿竹市東汽漢旺。ここは東汽という大企業の城下町ですが、都市のほぼすべての住宅、警察、銀行などが壊滅的な打撃を受け、数万人が町を放棄して郊外の仮設住宅に移りました。工場と町の中心部が封鎖され、人気も絶えた文字通りの「死の町」です。

 しかし、震災の衝撃に粟立ったのは、第四の北川県の市街地を見たときでした。最も被害の大きかった町は軍によって閉鎖され、町民といえども帰宅は許されません。群衆に混じって高台に登り、町を見下ろしたときのことです。他の被災地と同じく、周囲の山肌が無惨に削られ、大半の建物は歪み、傾いでいます。しかし大地の多くは緑の木々に覆われ、さほどの被害とは思えませんでした。

 錯覚でした。平坦な「緑の木々」に見えたのは、急斜面の森林が岩盤の土台ごと滑落し、市街地の大半を覆い尽くした跡だったのです。つまり、巨大な岩盤がそっくり都市に向かって崩れ落ち、多くの建物と人々をその下に覆ってしまったのでした。

 私の乏しい経験でいえば、地震で崖が崩れ、瓦礫が建物を埋め尽くしても、重機や人手をかければ、いずれは現場を掘り起こすことができるはずです。山が崩れて大地となり、都市の大半がその下に埋まるなどというのは、想像を絶する光景でした。

 北川県は、その六割近くを少数民族のチャン族が占める自治県です。痛ましいことに、民俗博物館を初め、チャン族の文化や歴史を伝える貴重な建物や文献の多くも、人命とともに岩盤の下に埋もれてしまいました。

 旅に出るとき、関連した土地であれば、私はいつも、司馬遼太郎氏の「街道をゆく」(朝日文庫)シリーズを携えることにしています。訪ねる土地の視野と歴史の奥行きが急速に拡がるだけでなく、司馬さんが訪れた当時と今の状況の段差に、思いがけない発見をすることが多いからです。今回も「中国・蜀と雲南のみち」を何度か読み耽り、感嘆の溜息を漏らしました。

 司馬さんはこの本の中で、チャン族の祖先といわれる羌族が「古代漢民族の祖」だという地元学者の意見に賛成します。さらに稲作はいきなり長江の大平野に成立したのではなく、四川省、貴州省、雲南省などの山谷で稲を作っていた多種類の少数民族が、低地平野に降りて楚という王国を造り、やがて中原に発達した漢文明に同化され、秦・漢の成立と共に中国の歴史の一部となった、という大胆な推論を立てます。

 なぜ溜息が出るかといえば、ごく最近、この司馬さんの「少数民族起源説」を傍証するような重要な遺跡の発見が、四川省で相次いでいるからです。一九八六年には成都市の北四十`にある広漢市内の三星堆遺跡から、青銅の人像や大型の仮面、神樹が見つかり、二00一年には成都市郊外の金沙村から、これに続くと見られる同系の青銅文物や象牙など多数が発見されました。

 私もこの二つの博物館を見ましたが、いずれも、従来の中原の遺跡に見られた青銅器とは明らかに文化の型が違います。考古学者はいまだに、古蜀のこの高度文明をどう扱っていいのか、測りかねているようですが、秦や漢の時代にこれらの文明が滅び、三、四千年を経て蘇ったということだけは間違いないようです。展示によれば、専門家の間では、従来の黄河・中原文明とは異なる系統の「長江文明」があったのではないか、という説が有力視されているともいいます。

 司馬さんがご存命なら、おそらくこの考古学上の発見に「わが意を得たり」と思われたことでしょう。そして今回の震災で「古代漢民族の祖」チャン族の人々と文化が失われたことを、だれよりも悲しみ、悼んだに違いありません。





写真は上から

1 李群華さん(左)と娘さん、夫(成都市の病院で) 2008年8月9日
2 震源地に近い映秀は壊滅状態に近かった 2008年8月12日
3 映秀のはずれにあった建物  同
4 北川県遠景  蛇行する川の下側にあった中心部は、崩れた山にすっぽり埋められた 2008年9月11日
5 四川省の主要道路は各地で寸断された 同日撮影

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