2011年5月1日(日)記 吉田さんご一家と再会した翌日、仙台に帰る途中で、気仙沼市最大の避難所「ケー・ウエーブ」に立ち寄った。 ここは震災から一週間後に被災地入りしたときに、最初の取材ポイントになった場所だった。 前回から、どう事態が改善されたのか、この目で確認をしておきたかった。 最初に市総合体育館「ケー・ウエーブ」に入ったのには、多少のいきさつがあった。 被災地の状況がまったくつかめないまま現地入りしたとき、同僚を通じて、島根・隠岐諸島で診療所を運営する白石吉彦医師と連絡をとった。 白石医師は、自治医大の卒業生。離島勤務は、たった一人であらゆる患者を診る「限界医療」を日常的に行う場でもある。限られた資源で、どう患者さんを診たらいいのか、ふだんから考え続けている人々だ。 白石氏は自治医大同窓生に呼びかけて支援態勢を組み、いち早く先遣隊として現地入りしていた。地元医師らと連絡をとり、拠点にしたのが、岩手県一関と宮城県気仙沼市の中間にある藤沢町だった。数少ない情報の中で、まず白石氏とお目にかかることが、私の唯一の手がかりだった。 現地に入ると、自治医大同窓生は、同じく日本プライマリ・ケア学会の先遣隊として現地入りした内藤俊夫・順天堂大准教授と合同プロジェクトを立ち上げ、地元医師に通じる携帯電話を配ること、大規模避難所にいる地元医師に代わって当直をつとめ、不眠不休だった医師を休ませる作戦を進めていることを知った。 当時は緊急車両以外に、ガソリンを買うことは難しかった。数少ない車を用立てていただこうと、それから数日、内藤医師らをお連れして救援物資をお配りした。 内藤医師と、最初に訪ねたのが、「ケー・ウエーブ」だったのである。 高台にある総合体育館には、当時1000人近くの人が避難していた。ようやく自衛隊の炊き出しが始まり、三食が配られ、落ち着き始めたころだ。しかし、地元医師らは、自らも被災しながらまったく休まずに被災者のお世話をしており、燃え尽き症候群が出てもおかしくない状況にあった。 千葉県松戸市で介護施設を運営する安西順子さんらが、市の看護師を後ろから支え、各地の避難所を巡回しているのにも同行させていただいた。 その後、1ヵ月余を経て、ケー・ウエーブはかなり落ち着いてきていた。 市健康増進課の看護師・畠山千明さんによると、今は東名厚木病院と富山大の内科、外科、小児科の医師が通いで来ている。東京都の薬剤師、東京女子医大精神科の医師も応援を続けているという。 市では、避難所は病院ではなく住宅と考えており、夜間の当直態勢はやめることにしたという。夜間に救急患者がでれば、他の市民と同じく救急車で市内の病院に搬送している。 これには、地元の22医療機関が業務を再開したこととかかわっているのだろう。外部からの応援はありがたいが、地元の医療機関が再開すれば、本来の姿に戻すために、救急態勢を徐々に縮小していったほうがいい、という判断だ。 阪神大震災のときにも、同じ問題が起きた。たとえば救援物資やボランティアはありがたいが、物資がいつまでもただで配られると、再開する商店の民業を圧迫する。がれき撤去や清掃も、今はとても人手が足りないが、いずれ被災者の方々を雇用することになれば、競合や摩擦が起きることも想定しておかねばならない。難しい問題だ。 畠山さんによると、急性期が亜急性期、そして慢性期に移行したのは、だいたい震災1ヵ月後くらいだろうという。それまでは、インフルエンザやノロ・ウィルスの感染が疑われる人々が、多い時で一日10人ほどいた。今後は、100人以上おられる70歳以上のお年寄りの介護が問題になるだろうという。 今の懸念は、交通手段の確保だ。ケー・ウエーブ」は市の中心部から遠い高台にあるため、市街に行くのが一苦労だ。地元医療機関が再開したのはいいが、そこまで通う足が足りない。 避難所を運営している市図書館勤務の酒井勇一さん(59)にも話をうかがった。 29日現在、市内には55ヵ所の避難所に5182人がおられる。うち「ケー・ウエーブ」におられる方は620人で、今も市内最大だ。 仮設住宅は5月2日に気仙沼中学校前の市民グラウンドに第一次191戸が完成し、その抽選が28日に行われた。今のところ5次まで1303戸の建設を予定しているが、まだまだ足りない状態だ。「ケー・ウエーブ」の敷地にも85戸建設の予定で、26日から着工し、工事が進められている。 「避難生活も長くなってきたので、一時の物資や食事、水といった要望から、ふつうの日常生活への要望に変わりつつあります。最近では、メインの体育館に2メートルの仕切り版を設置して、プライバシーが守られるようにしました。これからは、夏用の衣料品、夜具寝具が必要になります」 秋田、静岡など他県の応援が8人、三重、長野など自治労からの応援が4人入り、医療関係者、介護士、保健師、 栄養士、保育師らを合わせると、応援は40人規模だという。こうした応援は、市町村が県に要請し、県が他の自治体との調整にあたっているという。 「震災から3週間後くらいたって、ようやく市の職員も週に1度は休めるようになりました」という。 酒井さんに、「お住まいはどうでしたか」と尋ねた。 「家は海岸近くにあり、百戸ほどの家が津波で押し流されました。今は避難所から、ここに通っています」 それ以上、おかけする言葉を失った。 写真 上から 1 3月20日、藤沢町の前線本部で引継ぎをすませた白石医師(左端)ら自治医大同窓生と、日本プライマリ・ケア学会の内藤医師(右から2人目)ら 2 3月21日、気仙沼市唐桑地区を巡回し、通りかかった住民と話すボランティアの安西順子看護師(左) 3 今のケー・ウエーブ |
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ご無沙汰しております。その節はお世話になりました。何かの拍子に、外岡さんのブログにたどり着きました。ケーウェーブのときの写真が見つかり感動です。あの時頂いた、岩手の小ぶりのりんごの美味しさ忘れられませんでした。 |
安西です。 2012/05/10 22:13 |
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