2011年5月27日(金)記 自宅に、週刊朝日緊急増刊の「朝日ジャーナル 原発と人間」が届いた。 拙稿はのちに付記するとして、加藤典洋さんの原稿「政府と新聞の共同歩調」について、紹介をさせていただきたい。 震災当時、米カリフォルニアにおられた加藤さんは、3月末日に帰国し、その1週間後、ある報道機関の助力をえて、知人のいる福島県南相馬市に入った。 そこで見た日本のメディアのありようを見て、「これでは困る」と感じた加藤さんは、一文をしたためましたが、結局ボツになったそうです。 加藤さんは、そのボツ原稿の全文を引用しておられますが、南相馬が「屋内退避」を指示されてから4月7日までの時点で、その地区に立ち寄る日本のメディアはほとんどなく、英フィナンシャル・タイムズや米オレゴン州の地方紙など外国メディアだけが現地取材をしていたといいます。 さらに、加藤さんが訪ねる数日前にセブンーイレブンが開店したのに、それまでほとんど物流が途絶え、銀行が閉鎖され、郵便までが配達をやめた実態を指摘します。 「なぜ外国の新聞、セブンーイレブンがやれていることを、日本の政府も、メディアも、できないのか」 そう述べたうえで加藤さんは、日本のメディアに苦言を呈します。 「日本のメディアには、一日も早く、放射能への態度を改め、記者を送って、地域住民の側に立った報道を行ってもらいたい。なぜなら、政府と共同歩調をとっていては、二つ並びの福島原発の非常時タンクと同じことで、津波が来ると一緒にもっていかれる。政府を真剣に批判できない。社会のセーフティーネットに、ならないからである」 原稿を読んで、ほんとうに痛いところを衝かれた、と感じました。以前大手メディアにいた経験からして、今回の震災取材でも、各社は横並びで取材態勢をくんでいたと、想像されるからです。 これは、明文化された協定や合意ではなく、「突出すれば、なにかあったときに責任を問われる」というメディア同士の間合いの取り方から、自然にうまれる横並び体質のような気がします。記者やレポーターも、メディアという企業に属していると、各社ごとに決めた安全基準に、従わざるをえません。正直にいうと、私も、おそらくそうしていただろうと思います。 しかし、加藤さんが指摘されるとおり、「屋内退避」を命じられた人々大勢が、そこで暮らしていたのです。その場にいなければ、物流や銀行、郵便などが途絶する事態を、「おかしい」と批判することはできません。 私は、あの時点で加藤さんが現地入りをなさった決断に敬服すると同時に、震災直後、放射能に対するおそれに縛られていた自分を、情けなく思い返します。 おそらくは、私に欠けていたものは、想像力ではなく、事実を直視する勇気だったのでしょう。放射能という言葉や、マイクロシーベルトなどの実感を伴わない数値は、想像力や情緒を刺激し、過度のおそれや不安をかきたてます。事実によってのみ、そうした恐れの実体の有無を、検証できるはずなのです。 今回の事故の原因となった「全電源喪失」は、非常用電源も原発と同じ立地に設置していたために起きました。 メディアが、政府と同じ場所に位置し、「二つ並びの非常時タンク」になってしまえば、津波で事故を起こした原発と同じことになる、という加藤さんのご指摘を、肝に銘じたいと思います。 ちなみに、付け加えますと、今現在、メディア各社は「緊急時避難準備区域」にある南相馬の現地で取材を続けており、以前のようなことはありません。 私は加藤さんのこれまでのお仕事、「アメリカの影」や「敗戦後論」を愛読してきましたが、今回の文章を読んで、 加藤さんの文章の核にあるエネルギーは、あまたの言説にとらわれず、事実を直視する洞察力であることに、改めて気がつきました。 付記 「安全神話」は崩壊し3・11が続く(著作権・週刊朝日) 外岡秀俊 事件の日付が単独で意味をもち、年月を超えて次世代に受け継がれることがある。いわば日付が、年の単位を食い破る大事件だ。 たとえば満州事変の翌1932年に、海軍青年将校が犬養毅首相を暗殺した5・15。4年後に陸軍の青年将校らが軍事力で権力奪取を狙った2・26。軍部暴走の里程標となったそれらの日付は、その後45年の広島原爆8・6や長崎原爆の8・9、そして敗戦の8・15など、一連の「破局」の日付とともに、日本に住む人々の脳裏に深く刻まれた。 これは日本のみに限らない。一昔前まで米国では、ルーズベルト大統領が「汚名の日」と名づけた41年の真珠湾攻撃12・6や、63年にケネディ大統領が暗殺された11・22、そして最近では同時多発テロが起きた2001の9・11が、それにあたる。 これらの沈鬱な日付が意味するものは何だろうか。ひとつは、その国に住む人々があまねく、「その日、自分はどこで何をしていたのか」を後々まで克明に記憶しているほど衝撃の度合いが深く、広がりがあったことだ。人々は昨日までの確実な日常が終わり、一歩先の足場が崩落するかもしれないという不安に駆られたことだろう。もうひとつは、その事件が、年単位の尺度を越えて持続し、後世にまで重大な影響を与え続けている点だ。 衝撃の深さと広がり、後世への影響の大きさといった要因からみて、東日本大震災が起きた3・11が、日本だけでなく今後、世界が記憶する特別の日付になるのは疑いない。 「共に慄く」しかない 95年の阪神大震災では、朝日新聞アエラ誌の記者として1月17日から神戸入りし、その後1年余にわたって被災地で取材した。今回の震災では一週間後に上空から被災地を見て、翌日から一週間、陸路で岩手、宮城、福島県内を取材した。退社後の4月25日から、一ジャーナリストの立場で岩手、宮城に入り、気仙沼市でこの原稿を書いている。宮古、気仙沼など被災地ではまだ、がれきがほとんど片付いておらず、電気、水などライフラインがようやく復旧し始めたところだ。 大災害は、一つとして同じ態様の起き方、経過をたどらない。「アンナ・カレーニナ」の冒頭の一句にあるように、「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸か家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」。一つの災害から、全災害に共通の「教訓」を引き出そうとしても多くは無駄であり、マニュアル化は時に、現実を無視する弊害を生みかねない。 たとえば阪神大震災は、3連休明けの午前5時46分に起きたため、社会活動は始まっておらず、多くの人々は自宅にいた。そのため、被害者の約9割は家屋倒壊による圧死だった。もしこれが、関東大震災のように昼の時間帯に起きていれば、家族の多くは離れ離れで活動し、崩落した高速道や倒壊したデパートの下敷きになったり、大火が各地で続出したりした可能性が高い。阪神大震災から、「既存不適格の木造建造物は危ない」という「教訓」を引き出すのは正しいが、それは必要条件であっても、十分条件とはいえない。 大災害では3日が急性期といわれる。命の明暗を分ける極限状況である。その期間は、生存者を救出できる可能性が高く、他方では、食糧や水などが途絶えるか、あるいは届いても少量のことが多い。逆にいえば、3日をしのげば、大規模な救援活動が動き出す。 ところが今回の場合は、阪神とは被災の桁が違った。阪神ではM(マグニチュード)7・3のエネルギーが「震災の帯」と呼ばれる長さ約20`、幅約1`の都市部に放たれ、その後の震災関連死も含め、6400余人の方々が亡くなった。東日本大震災では、M9・0。阪神の1450倍にあたるエネルギーが放出され、長さ500`に近い沿岸部に巨大な津波となって押し寄せた。死者・行方不明者は4月29日で2万5727人だが、これには警察に届け出のない不明者は含まれていない。岩手、宮城、福島三県の検視結果によると、死因の約9割は水死だった。私自身、阪神では「なぜ1人でも救えなかったのか」という悔恨に駆られて取材を進めたが、今回はただ、慄くしかなかった。亡くなった方への哀悼は、安住の地にいる人の同情かもしれない。せめて「共に慄く」ことだけが、被災者との共生の道に繋がるかもしれないと思いながら、この文を綴っている。 被災地が広域で、支援拠点の仙台が甚大な被害を受けたこと、秋田、山形など隣接県も直後に停電になり、ガソリンなどの物流が滞ったことで、「3日が急性期」という「常識」も覆った。4月30日に避難所で会った気仙沼市健康増進課の畠山千明看護師によると、亜急性期が終わって慢性期に入ったのは、「震災一ヵ月後」くらいだったという。 崩れた「予知の思想」と「安全神話」 だが、今回の震災と阪神大震災に、共通したものもある。皮肉にもそれは、1965年以来、国家企画として続いた「地震予知計画」の失敗である。阪神大震災に関する拙著「地震と社会」(みすず書房)で私は、近代の地震学の系譜に触れ、直下型の阪神大震災で予知計画が破綻したことを示唆した。空白域に地震が起きる蓋然性は指摘できても、前兆から、いつ、どこで地震が起きるのかを特定することは、今の研究水準では難しい。 比較的予知しやすいといわれた今回のような境界プレート海溝型でも、予知は破綻した。朝日新聞は4月21日付科学面で12人の地震学者に今後の見通しを尋ね、その結果を一覧表で掲載した。うち6人が「見通しは立てにくい」「予測には限界がある」などと答えた。他の6人も「首都圏直下も要注意」「影響は、時間的空間的に広い範囲で出るだろう」など、「見通し」の体をなしていない。だがそれは学者の良心を示す発言で、むしろ率直な現状認識といっていいだろう。 一度も成功したことがない「地震予知」の思想がいまだに続いているのは、その厚い岩盤の上に、社会の「安全神話」が聳えているからだ。防災対策では、直近最大級の災害をもとに、耐震基準や防潮基準が定められる。阪神以前には、「関東大震災級にも耐えられる」というのが土木建築の設計基準であり、阪神以降は、「阪神大震災級にも耐えられる」が合言葉になった。私は阪神大震災の後、土木学会への取材で事務局を訪ね、こんな言葉を聞いたことがある。 「どんな災害にも耐えられるというなら、要塞のような都市を築くしかない。土木工学でそうした都市は造れるが、そんな都市に住みたいという人がいますか?」 ある意味で正直な発言だろう。土木や建築は、防災だけでなく、住み具合や利便性、コストといった様々な要因の関数によって設計が決まる。「どんな規模の災害にも耐えられる」という設計はありえない。 だがそのことと、「絶対安心」という「安全神話」は異なる。「直近最大級の災害」を目安にした防災基準を「安全神話」に変えるには、「地震は予知できる」という「仮構」を導入する必要があった。「今の建物は直近最大級の地震にも耐えられる。それ以上の地震も、事前に予知できるから、大丈夫だ」というフィクションである。高度成長期以降、こうした「安全神話」は独り歩きし、この国は厳しいチェックを受けることなく、「土木国家」の道を邁進した。地震や防災の専門家は、自らの研究の限界を熟知しているはずなのに、「安全神話」という社会の了解事項を批判することは、タブー視されてきた。 「想定外」とは何か 同じ構図が今回の原発事故にも当てはまる。いうまでもなく、東日本大震災が阪神と決定的に異なるのは、福島第一原発の震災が今も続いていることにある。同原発は地震直後、14bを越す津波で1〜5号機の全交流電源が喪失し、6号機の非常用発電機1台だけが残された。原発の「安全神話」を支えた「多重防護」システムの破綻である。 原発でも、阪神大震災後に耐震設計審査の見直しが行われ、06年に指針が改定された。旧指針は「深さ10キロ、M6・5の直下地震」を想定していたが、新指針ではその地域で観測された過去の地震記録をもとに、個別に地震動を設定するなどの方式に変えた。だが07年の新潟県中越沖地震で、柏崎刈羽原発が新指針の「想定」を上回る地震動に見舞われ、新指針への信頼は揺らいでいた。 津波に至っては、「想定」そのものが極端に低かった。東電では、過去の津波被害などをもとに、福島第一原発の津波は5・4〜5・7bと想定していた。過去最大級といわれる869年の貞観大津波を「想定」するのは難しかったとしても、大半が沿岸部に立地し、事故が内外に甚大な被害をもたらす原発の被害予測は、甘かったといわざるをえない。 事故は「想定外」だからこそ起こる。地震・津波の予測には限界があるのに、既知データのみから被害を一定枠に「想定」し、「多重防護があるから大丈夫」という「安全神話」で押し切る。危険性を警告する声に対しては「専門家でなければわからない」と耳をかさず、批判する専門家は仲間内から排除する。そうした徹底した「安全神話」の管理が、「原発管理」の内実だったのではないか。 今回の事故については、津波被害以外に、地震動による冷却剤喪失を疑う意見もある(雑誌「世界」5月号、田中光彦氏論文など)。だとすれば、大津波以外に、全国の原発にも同様の危険性が広がる。私は「脱原発」を目指し、危険度や老朽度に応じて順次廃炉にすべきだと考えるが、今は詳論しない。原発の危険性は一国にとどまらない。今回の事故の全データを国内外に公開し、「安全神話」崩壊を認めるところから、今後も続く「3・11以後」を踏み出すしかない、と思う。 図は5月25日時点の福島での大気中の放射線量。高い順に、 浪江(赤字木) 18.7 浪江(下津島) 10.4 飯舘 3.05 福島 1.37 郡山 1.33 白河 0.55 南相馬 0.48 などとなっている。(単位は毎時マイクロシーベルト) 福島や郡山の児童・生徒の保護者の方々が、放射線の影響を心配する理由は、こんな数値にも示されている。 写真 臨時増刊の朝日ジャーナル表紙 |
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