外岡秀俊 3.11後の世界

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<<   作成日時 : 2011/05/01 22:33   >>

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2011年5月1日(日)記

4月29日、ようやく気仙沼の吉田さんご一家と再会することができた。

私がご一家とお目にかかったのは、3月21日の夜。当時ご一家は、最大避難所になっていた気仙沼市総合体育館、通称「ケー・ウエーブ」の廊下で暮らしていた。
詳しくは、後に付記する原稿をお読みいただきたいが、一家は震災当時、ばらばらで活動しており、地震、津波、火災の三重被災をそれぞれに乗り越え、4日後に一家再会を果たした。

その証言自体、津波の恐ろしさを伝えてあまりあるものだったが、私が心を打たれたのは、苦難をものともせず淡々とものごとに対処する勇気と、ユーモアを忘れずに互いを支えあう慈しみの気持ちだった。取材をしながら、災害のあまりの悲惨さにこちらの方がめげそうになり、ご一家に励まされるような気がした。

その後、ご一家はどうしておられるのか。退社してからもずっと気になり、いつか訪ねてお話をうかがいたい、と思ってきた。

その機会は意外に早く訪れた。記事をお送りしたところ、父親の吉田教範さんから私の元の職場にご連絡があり、
新しいご住所と電話番号を残してくれた。

吉田家は、使われていなかった高台の親戚の家に移り、ようやく暮らしが落ち着こうというところだった。当時、丁寧に質問に答えてくださったお礼をいってうかがったその後の顛末は、こうだった。


気仙沼市は、学校の授業再開にあわせて避難所を集約する方針で、ケー・ウエーブは、3月末には別の避難所から新たな被災者を受け入れることになった。吉田家は、まだ3歳の匡希ちゃん、6カ月の圭吾ちゃんの2人の孫がおり、夜泣きなどで迷惑をかけたくないため、廊下で暮らしていた。避難所の体育館の中でさらに手狭になれば、肩身が狭くなるのは目に見えていた。

知人のつてを頼って住居を探していたところ、空いていた物件があった。持ち主を聞くと、たまたま吉田さんの親戚で、3月30日に、移り住むことができた。初めは水もガスも使えなかったが、4月7日ころ、ようやくライフラインが使えるようになった。

行方不明だった教範さんの父親清實さんがご遺体で見つかったのは、4月5日のことだった。前日まで教範さんは遺体安置所を訪ねて歩き回ったが、ご実家の隣りの人ががれきを片付けたときに、お父さんを発見したという。ご遺体は着衣も乱れず、ほとんど傷もなかった。
当時、82歳の清實さんは、孫の教那さん、ひ孫の圭吾ちゃんと一緒だったが、「裏山に登れ」と孫たちに指示した。1960年のチリ地震津波は、10メートルもあろうかというその裏山に達しなかったからだ。しかし、寒空のもと、乳飲み子を連れていくわけにはいかないと思った教那さんは、その場で祖父と別れ、車で小学校に向かった。

今回の大津波は、裏山をあっさり乗り越え、家や車を山向こうまで押し流していった。裏山に避難していたとしても、
生き延びることは難しかったかもしれない。教範さんは、たぶん父親は家を出ることなく、仏壇を拝んでいたのではないか、という。そういう、信仰の篤い人だった。

9日になって、鹿折の臨時市営墓地に埋葬した。火葬を待てば、2週間はかかる。ご遺体はそれまでもつまい。いったん土葬にして、半年くらいたてば、改めて荼毘にふすこともできる。担当者にそういわれ、やむなく土葬にした。しかし、28日に49日を迎え、菩提寺に集まったご親戚一同約30人は、口々に、「それでよかった」といってくれた。ようやく、肩の荷がおりたような気がした。

だがそれもつかの間、新たな試練が待ち構えていた。
33年1カ月勤めた気仙沼漁協から、解雇の通知を受けたのである。

「この度、貴殿を下記の理由により解雇しますことをここに予告します。
     4月30日
 (解雇理由)東日本大震災の発生に伴う業務縮小のため 」

紙一枚の予告書にはそう書かれていた。

昨年、税込みで225億円の売り上げがあった漁協は、津波で壊滅的な打撃を受けた。市場、製氷、造船、鉄鋼、
補給、加工団地。一切が流された。今漁協は、6月のカツオ水揚げを再起のバネにしようと必死だが、福島原発の風評被害で、どのくらい他港船がやってくるか、心もとない状態だ。
漁協は、業務縮小を決め、100人の職員を半分にまで減らすことにした。その一人が吉田さんだったのである。


一時は、「組合闘争を」という声も出た。「残る方だってつらいんだぞ。やめろ」。そういって、吉田さんは制止する方に回ったという。

一家は、吉田さん夫妻、娘の教那さん夫妻、孫2人、そして教範さんの母親と、奥様のご家族3人の計10人。それだけの大家族がこれからどう食べていくのか。
だが、一家はあれだけの試練を乗り越えた結束力で、ひとつになっている。

「最近は、彼の方が稼ぎがよくって、おれの方が肩身が狭いぞ」

道範さんがそう笑って、娘婿の孝幸さんを振り返った。
孝幸さんは土木業勤務。今通っている階上(はしかみ)地区のがれきの撤去だけで、数年はかかる、といわれた。
重機を使ってがれきを一つ一つ選別し、仕分けて、片付ける。重労働だ。この間は、休日もとらず、日暮れまで働きづめに働いている。

「被災者の方々を雇用して、がれき撤去をしていただくという案がありますが」と水を向けると、
「いやあ、大変です。腐った魚の臭いがたちこめて、息もできない」。
都会の会議室で考えるほど、ことは簡単ではない。

ちょうどゴールデン・ウィークが始まったところで、仙台にいた次女早織さん(25)、三女希さん(22)も一時帰郷し、一家は和やかに食卓を囲んだ。
いつもより、かなり奮発したご夕食のようだった。しばらくして、それが、事前に来訪をお知らせしたため、私を歓待してくださるためだった、と気づいた。

申し訳ない。でも、そのお気持ちに、心のなかで深く頭をさげた。



 付記

我が家族また会えた 津波火事くぐり抜け離れ離れ4日間 宮城・気仙沼 東日本大震災 (3月23日付朝刊 著作権・朝日新聞社)

 地震、津波、火災。東日本大震災で、三つの災害が重なった宮城県気仙沼市。主婦吉田教那(みちな)さん(26)の一家四代8人は、大地が揺らいだその時、離れ離れの場所にいた。大津波が来るまで、残された時間は、あと30分。(外岡秀俊)

 ●実家で
 11日、教那さんは、5カ月の次男圭吾(けいご)ちゃんと、小々汐(こごしお)で酒店を営む祖父清實(きよみ)さん(82)の実家にいた。
 ぐらーん、ぐらーん。祖父の世話をしていた教那さんは、立っていられないほど大きな横揺れに、思わず我が子を抱えた。家が停電し、棚の酒瓶が全て倒れ落ちた。
 「津波だ。裏山に登れ」
 1960年のチリ地震津波を経験した祖父が言った。あのとき、津波は裏山まで届かなかった。
 裏山は避難所に指定されていたが、施設がない。山に孤立すれば乳児を守れない。
 「私たち、浦島小学校に」
 ミルク、オムツ、お湯入りポットと毛布を引っつかんだ。祖父と離れて、パート店員の3人で外に出た。地割れが足元に迫っていた。家々が「プリンのように」揺れた。車を運転し、浦島小まであと2キロに迫った時だ。
 「道路に亀裂が入った。これ以上、運転できないぞ」
 車を乗り捨て、乳飲み子を抱えて必死で走った。坂を上りつめた時、すぐ目の前に水が迫っていた。

 ●勤務先
 土建業勤務の夫、孝幸(たかゆき)さん(36)は、内湾の北部高台にある東陵高校近くの会社で仕事をしていた。
 大揺れに耐え、外に飛び出ると、間もなく水が迫った。
 「やばい」。押し流される車の窓から、必死で逃げ出そうとする人が見えた。大きな船が、丘を上ってくる。携帯をかけた。つながらない。やっと義母、みや子さん(56)につながった。
 「津波よ」。義母が電話口で言葉をのんだ。
 「匡希(こうき)の幼稚園は?」
 夫が2歳の長男の安否を尋ねたところで電話が切れた。
 みや子さんは、市立病院の1階病室にいた。1カ月前に右大腿(だいたい)部を骨折した祖母和江(かずえ)さん(81)に付き添っていた。地震直後、看護師が駆けつけた。闇の中、ベッドにいた6人の患者をそれぞれ車イスに乗せ、みんなで抱えて2階まで階段を押し上げた。
 湾を望む気仙沼漁協に33年間勤める父親の教範(みちのり)さん(53)は、横揺れで倒れそうな事務所のロッカーを支えた。机のパソコンが倒れ、「大津波警報」の放送が流れた。すぐに屋上に避難した。
 チリ地震津波の時には、ゆっくりと水が引き、内湾の底が見えた。今回は水が引く前に大きな海の壁が押し寄せ、濁流となって建物をなぎ倒した。次々に避難して来る人々を誘導するのに無我夢中だった。内湾の入り口にある重油タンクが倒れ、夕方、火の手があがった。

 ●幼稚園
 浦島小に避難した教那さんは、校庭で頭から毛布をかぶっていた。相次ぐ余震で、校舎は危険だった。明るい時間のはずなのに煙が満ち、黒いカーテンに包まれたようだった。爆発音が響いた。火花が散った。圭吾ちゃんを見ると鼻の穴が黒くすすけていた。
 水が引き始めたころ、夫は必死で避難所を訪ね歩いた。長男はどこにいるのか。夜の9時、知り合いに出くわして、長男が通う南気仙沼幼稚園の園児は、近くの南気仙沼小に避難したと聞かされた。急いで小学校に向かった。
 校舎は腰までの水に浸っている。水中に入って進んだ。ウーッという、うめき声。「助けて」という、かすかな声が聞こえた。助けようにも真っ暗で方角もわからない。痛いほどの寒さに引き返し、車の中で一夜を明かした。
 明け方5時半。足首ほどに引いた水をかき分け、校舎に駆け込んだ。園児は3階に避難しているという。教室に入った。先生たちは、窓辺で沖を見ていた。園児たちは頭を並べてすやすや寝ていた。
 いたぞっ。眠っていた長男を起こして抱いた。急に泣き出した匡希ちゃんを、今度はあやさねばならなかった。

 ●病院へ
 教那さんはその後、自衛隊のヘリコプターで救助され、気仙沼小へ。父、夫と長男、教那さんは、それぞれ祖母と母がいる市立病院を目指して歩き始めた。ところが病院に重病者を収容するため、祖母らは市総合体育館「ケー・ウエーブ」に避難。散り散りになった一家がようやく再会したのは15日だった。
 祖父が避難した裏山は水にのまれ、いまだに行方不明だ。祖父の住まい、両親と若夫婦の実家がいずれも流され、無一物になった。骨折した祖母は叔父の家に身を寄せ、今は一家6人が避難所で暮らす。
 長男が闇を怖がり、次男が夜泣きをするので、一家は体育館の外のロビーで寝起きする。それでも一家がそれぞれの危機を乗り越え、また一つになった安心には換え難い。
 気仙沼は内湾から高台までの距離が長い。大人が全力で走ってようやく逃れられる30分だった。動けないお年寄りを抱える人々は車で家に向かい、亀裂の走る道で渋滞に巻き込まれ、水にのまれた。
 「おばあちゃんが入院していたお陰で、混乱時にも病院が目標になった」と教那さん。父親の教範さんは今も毎日、遺体安置所に足を運ぶ。「想像を絶する津波に私たちも目覚めた。ここでの生活もそろそろ限界。お年寄りや幼児が住める仮設住宅への道筋がほしい」と、21日話した。
 19日は、匡希ちゃんの3歳の誕生日だった。その日の夕食で初めて、カレーライスが配られた。人数分の皿を丸く並べた。喜びを分かち合う、誕生ケーキに見立てて。

 【写真説明】
1800人が暮らす避難所「ケー・ウエーブ」のロビーに吉田さん一家6人がいた。後列左から教那さんと夫。前列左から母、次男、長男、父=21日夜、宮城県気仙沼市の市総合体育館、外岡写す
津波で船や家屋が押し流され、地震発生翌日も火災が続いた宮城県気仙沼市の市街地=12日、本社ヘリから
 【図】
大津波まで30分、吉田教那さん一家はここにいた


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写真 4月29日の吉田さんご一家


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