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help RSS 富岡町の場合 その1

<<   作成日時 : 2011/05/24 16:08   >>

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 2011年5月23日(月)記

 21日と22日は、福島県郡山市に滞在した。
 今回は、被災地からのメール通信を発信してきた地元の降矢通敦(ふるや・みちたつ)さん(74)と、市内の避難所「ビッグパレットふくしま」にいる白土正一(しらど・しょういちさん(61)に、お目にかかるのが目的だった。

 実はお二人については、現地入りした早稲田大の水島朝穂教授が先にご自分のブログでご紹介をしておられた。その内容を読んで、私はかつて何度か取材した水島さんにご連絡をとり、改めてお二人をご紹介していただいた。
 
 降矢さんは、大手電機会社に長く勤め、組合活動もしてきた。定年退職後は「社民党がんばれOB・0G福島の会」事務局長をしており、市民グループとの交流も長い。

 福島県の反原発運動グループから、「行政職員だったが、信頼のおける人」という触れ込みで、白土さんの紹介をうけ、その後のおつきあいが始まった。

 今回の震災の被災者として、まず白土さんのことを書かせていただこう。

 反原発グループから「信頼のおける人」と見られていたと書いたが、公平を期していえば、白土さんは東電側からも信頼されていた。

 「私は行政の一員として、原発推進、原発反対いずれの立場もとらない。ただし、住民の安全を守るために、最大限の主張する」という立場を貫いてきたからである。
 
 ここに、今回の震災で、白土さんが貴重な証言者となるひとつの条件がある。

 つまり、東電の責任を追及する立場、東電を守る立場のいずれからも価値中立的に、「原発付近の住民の安全は、どう守られ、守られなかったのか」を実務者の立場から観察し、記憶する立場にあったのである。

 まず、経歴をご紹介しよう。
 
 名刺をいただいて、何度か目をこすった。「白土」の「土」の右上に、「点」がふってある。ワープロでは漢字表記できないので「土」と書くが、正式な姓は「土」に「点」をふった字だ。
 
 「14世紀ごろに、いわきで生じた豪族の出であったと伝わっています。はじめ『白王』を名乗っていたが、朝廷をはばかって、『王』の上の『−』を、点に換えた。これが第一の説です」
 
 「第二の説は?」

 引き込まれて尋ねると、「もう一つは、戸籍をつくるときに、『土』の右上にゴミがついていたという説」。

 思わず、笑ってしまった。「王とゴミと、ずいぶん説には開きがあるんですね」というと、白土さんは、ニコニコ笑っていらっしゃる。このあたりの鷹揚さに、反原発派、東電の双方に信頼される理由があるのだろう。

 白土さんは、福島第二原発に近い富岡町に生まれ、富岡二中、双葉高校を経て、拓殖大を卒業後、富岡町役場に勤めた。昨年3月末に定年退職するまでの10年間は、生活環境課にいて、最後は課長をしていた。

 生活環境課は、防災や消防も担当する。火事になれば、まずサイレンを鳴らし、広域消防の出動に加えて、300人いる町の消防団の分団をいくつ出動させるか、それとも全団を出動させるのか、決断をする役割を担う。

 原発防災も、生活環境課の主任務である。
 
 つまり白土さんは、昨年までその責任者であり、危機管理の実務を知り尽くす立場にあった、ということができる。

 99年に茨城県東海村でJCO臨界事故が起きるまで、東電は「日本の原発で事故は起きない」という立場をとっていた。しかし実際に事故は起きた。
 
 さらに2000年にはMOX燃料のデータ改ざんが発覚して、地元の不信感が高まった。そこで平成03年2月、東電がきちんと地元に情報を開示する仕組みとして、「福島県原子力発電所所在町情報会議」ができた。これは

 立地4町から委員5人ずつ 20人
 
 第一、第二原発所長     2人
 
 学識経験者         1人             
  
                           計23人の構成である。



 のちに福島県も、「透明性を高め、安全安心の確保に努める考えなら」という条件でオブザーバー参加するようになった。また経産省の原子力安全・保安院なども、オブザーバーとして参加してきた。


 情報会議は年4回、2月、5月、7月、11月に開かれた。第3回会議から、生活環境課長補佐だった白土さんが司会を務めるようになり、約30回にわたって司会を続けた。

 いわば、情報会議の事務局長格だったわけである。 


 震災時の経過を追ってみよう。

 退職後、白土さんは、春の統一地方選の県議選に出馬するため、選挙活動を続けてきた。その日も、選挙事務所で仕事に追われていた。激しい揺れがきた。防災無線で二度放送があり、「6〜7メートルの津波が来るおそれがあります」と住民に避難を呼びかけた。

  「あんたの家も流されているぞ」。選挙応援をしてくれた人が血相を変えて飛び込んできた。
  
 30分後、つい最近まで勤めていた町役場に行き、災害対策本部に入った。本来は委託業者が来て、東電とのテレビ会議の回線を調整しているはずだった。しかし、回線はダウンし、本部は本庁舎隣りの図書館に設けられていた。

 その日は電話の応接に追われた。つい最近まで責任者だったとはいえ、辞めた身の上で指示するわけにはいかない。身を引いて、後方支援に徹した。

 選挙事務所で一夜明かした翌12日。富岡駅周辺の被災状況を見回って役場に行くと、震災後に派遣された福島第一、第二原発の連絡要員がいなくなっていた。

 課長補佐が、白い防護服と、マスクをつけて立っていた。

 「何やってんだ、白装束なんか着て」

 白土さんがいうと、補佐が答えた。「逃げてください。原発が爆発したみたいなんです」
 
 東電からはそれまで、「原発は多重防護で守られている。どんな場合でも、事故までには1日のゆとりはある」と聞かされてきた。震災、津波、原発事故。最悪の事態が刻々と迫っていた。

 午後4時、白土さんは自宅に戻り、弟に現金や通帳の持ち出しを指示し、毛布などを車に積んで隣りの川内村の知人宅に向かった。

 川内村は人口約3000人。原発から半径20〜30キロ圏内にある。
 
 そこへ、前日まで小中学校に避難していた人口16000人の富岡町民のうち、5000人近くが流入してきた。体育館や公民館などに入った町民を、川内村民は、炊き出しやお握りを配って支えた。
 
 川内村は水力発電による電気系統がいきており、井戸水が豊富で、水の心配もなかった。

 しかし、その川内村も安全ではなかった。
 車などに相乗りして自主避難する人が多かったが、残る住民も決断を迫られた。

 白土さんが後で聞いたところでは、「屋内退避」を命じられていた川内村に、午後2時ころ、県警から、「30キロ圏外に引き揚げてくれ」と指示があった。
 
 村役場は午後5時10分、防災無線で村会議員、富岡各区長を呼び出し、「自主避難」するかどうかの協議に入った。午後6時20分、全村避難を決めてバスで郡山市に向かった。

 避難先は、イベント会場として使われる「ビッグパレットふくしま」。2500人近くの川内村民、富岡町民が入ると、通路にも人があふれ、身を横たえるのが精一杯だった。
 
 その後、借り上げ住宅やホテル、知人宅などに身を寄せる人々が相次ぎ、避難者は減った。それでも、1200人近い方がまだ暮らしている。

 朝はパンとジュース、昼はお握り、夜はお弁当の毎日だ。風呂は週に一度。5月21日になって、ようやくマットレスが支給された、という。

 そこが、原発防災の元責任者、白土さんの自宅である。

 
 







 写真は、降矢さん(左)と話す白土さん

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