2011年5月21日(土)記 20日は、宿のビジネス・ホテルから南相馬市役所まで歩いた。 そこから市内を歩き回るには、やや広すぎる。ちょうど本町2丁目で自転車店が開いているのを見つけ、思い切ってレンタ・サイクルをしていないかどうか、尋ねた。店主が、「いいよ」といって、古い自転車を出してくださった。 「じゃあ」と店主が手をあげて、そのまま店内に入ろうとするので、「すみません、保証金とか、連絡先とか、何か書類に書き込まなくていいんですか」と声をかけた。「いいよ、信用すっから」が答えだった。 名刺を差し出し、南相馬の取材をしているとお話すると、そこから立ち話になり、やがて店内に引き入れられて長い世間話になった。以下、店主の山崎孝雄さん(73)と、店に居合わせたその友人、国分(こくぶん)勝輝さん(72)の話である。 山崎さん 「いやあ、放射能に色がついてたらなあ、こんなに心配しなくてすむのにさ。 ここは緊急時なんとかといってね、学校は開けるのに、スクール・バスで別の学校まで行く。 市立病院だって、器具や病室はそのまんまあるのに、入院はできないっていう。 かわいそうなのは、透析患者だよ。 私んとこの妹の亭主が透析患者でね、相馬市の病院に行ったら、もういっぱいだと断られた。 結局、福島市まで行ってようやく透析をすることができた。透析っていうのは、2日ともたない。 またすぐに受けなくちゃいけないから、福島に家を借りることになった。借り上げといったって、 光熱費は自前だし、なんだかんだで月に15万円はかかる。 こっちの家は無事だったんだが、息子は仕事があるので、別々に住んでいる。 私の知り合いの透析患者の人は、関東までずっと探しに探して、17日間、結局受けられず、 『俺はもう、いい」って、ここに戻ってきて亡くなった。かわいそうにねえ」 国分さん 「5月はじめまで、地元の福島民報と民友の新聞が市役所に何束か届いてね。おれもみんなと列を作っ て新聞を受け取った。5時半か6時くらいから、何時間も待ってね。一ヵ月は通ったかな」 山崎さん 「原発ってこんな近くにあるとは夢にも思わなかった。3号機が爆発したとき、花火みたいな音が聞こえ た。重低音でドーンってね」 国分さん 「こりゃ、だめだ、となった」 山崎さん 「収束するまで10年、20年か。この店もおしまいかもな。隣は眼科なんだけど、お客さんは4分の1に 減ったそうだ。しかも入院できないから、1日2日の入院が必要な白内障なんかでも、患者は仙台に 行かなくちゃいけない。骨折でもしたら、まずは鹿島区か隣りの相馬市だが、いっぱいで断られたら、 仙台に行くしかないだろうな。なにせ、南に行く道路は、避難区域になってるから通れない」 国分さん 「常磐線も、当分は無理だろう」 山崎さん 「緊急時っていうのは何だろうね。また緊急時が来るっていう意味か、それとも念のためなのか、 さっぱりわからない。原発の放射能の影響は10年、20年後に出るという。俺たちなんか、そんなに長 く生きられないから、ふつうの病気で死ぬべ。でも次世代はどうなるか」 「この町もあれから、静かーな夜の町になったな。大型店は開きはしたが、契約期間があるから今は 開いているけど、それが終わったら閉じるんじゃないか、っていう話だ。病院だって、いざ再開するって いっても、スタッフは疎開しているわけだ。難しいと思うな」 その足で、1キロほど離れた原町区小川町の特別養護老人ホーム「長寿荘」に向かった。施設長の中川正勝さん(66)にお話をうかがった。 長寿荘は、定員70人。3日〜1週間の短期滞在が定員10人。ほかに25人定員のデイ・サービスをやっていた。 職員は63人だった。 3月13日から16日にかけ、警戒区域の特養にいた入所者17人と職員3人が避難してきた。さらに12日から 22日にかけ、海岸にあった老健施設の利用者5人、職員3人も、着の身着のままで逃げてきたのを受け入れた。 デイ・サービスをストップし、短期入所もやめて避難者のお世話をした。 しかし、原発周辺の自治体とは違って、情報が届くのは遅かった。 雲行きが怪しくなったのは、15日ころ。市役所は「自分で避難先を見つけて」という。福島県、県福祉事務所にもお願いしたが、「まず病院の避難が優先」ということで、なかなか調整が進まない。栃木の施設が受け入れてくれることになり、20日にまず6人を送り出した。 21日には警視庁、県警のバス3台で比較的動ける入所者28人を送り出し、22日には、ストレッチャー4台を収納する自衛隊の特殊バス5、6台と救急4台を使って22人を避難させた。救急車は、途中2人が入院することになったので、病院に向かった。 現在、在籍しているのは自宅に4人、合津など県内に4人、栃木の13施設に47人。合計55人だ。出先の施設が介護費を請求するので、長寿荘には収入が入らなくなった。 中川さんは15日に、「任意出勤」を宣言した。家屋が流出した職員は5人。床上浸水が1人。避難する職員もおり、15日以降は20〜30人態勢で乗り切った。 20キロ圏内の施設は、すぐに避難し、そのまま戻れなくなった。すぐに休業したところが多い。しかし、20〜30キロ圏内の施設は、もっと複雑だ。緊急時避難準備区域で、特養は事業をしてはいけないことになっている。だが、避難した入所者の原籍はまだ「長寿荘」にあり、一時預かりのかたちをとっている。いざ再開にそなえ、職員をとどめておきたい。しかし事業収入がなければ、雇用も維持できない。 中川さんは4月分は職員・パートに本俸を支給し、5月16日から、雇用保険の特例を受けてもらうことにした。 いま、在籍している職員は49人。うち17人は避難先にいる。 一時預かり先との連絡や事務があるため、4人分は休業届けを取り消し、6割ほどの給与で雇用を継続することにした。しかし、おおっぴらに事業を開いていると誤解されても困るので、出入りは少なくして、細々と再開の日を待っている。 最近、市内でデイ・サービスを復活するところが出てきた。県に問い合わせると、「やってもいい」という。だが、緊急時避難準備区域には、お年寄りは入らないようにする、ということではなかったか。中川さん自身、どう説明していいのか、わからずにいる。 写真は上から 1 国分さん(左)と、自転車店主の山崎さん 2 長寿荘 3 再開を待つ施設長の中川さん |
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