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help RSS 緊急時避難準備区域 南相馬の現実 その2

<<   作成日時 : 2011/05/21 19:24   >>

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 2011年5月21日(土)記

 それは、日本のどこにでもある地方中核都市の平穏な家並みのように見える。
頑丈でやや古びた文化会館、真新しい商業施設、博物館、こぎれいな公園。
緑ゆたかな住宅地が続き、どことなくなのびりとした時間が流れる東北の町だ。

 市役所屋上から眺めおろす南相馬市の中心部には、一見、どこにも震災の翳がないかのように見える。

 実際、沿岸部は別として、市の中心部にある原町は地盤が固く、震災の揺れで幾軒かの瓦屋根は落ちたものの、建物の被害は稀だった。震災後、電気・水道といったインフラも破壊を免れた。ただし電話は固定・携帯ともに使えなかった。沿岸部の被害こそ甚大だったが、もしこの都市が、福島第一原発の近くになかったら、中心部の震災からの立ち直りは、別の道をたどっていたことだろう。

 北に相馬市、南に浪江町と境界を接する福島県東部海岸の南相馬市は、いわゆる平成の大合併で、2006年、1市2町がひとつになって生まれた。
 北にあった鹿島町、中心部の原町市、南の小高(おだか)町がそれである。今はそれぞれ鹿島区、原町区、小高区と名前を変え、ようやく市の一体化が進みつつあるところだった。

 皮肉にも、福島第一原発の事故が、この南相馬市を、元の3市町域に分断することになった。

 南の小高区    半径20キロ圏内の「警戒区域」
 中央の原町区   半径20〜30キロ圏内の「緊急時避難準備区域」 
 北の鹿島区    半径30キロ圏外

 つまり、今の南相馬市は、南部が立ち入り禁止となり、中央部は生活が制限される「緊急時準備区域」、
北部がその制限のない区域と、三つの違った相を併せ持つ市になったのである。



 これは何を意味したのか。震災後を振り返ってみよう。

 3月11日午後8時50分  保安院、半径2キロの住民に避難指示

 3月12日午前5時44分  総理大臣、半径10キロ圏内の住民に避難指示
       午後3時36分  1号機水素爆発
       午後6時25分  総理大臣、半径20キロ圏内の住民に避難指示

 3月13日午後3時27分  3号機でも水素爆発の可能性

 3月14日午後2時12分  経済産業大臣、屋内退避が命じられている住民に、20キロ圏外への待避再開を指                   示

 3月15日午前11時00分 総理大臣、半径20〜30キロ圏内の屋内退避指示 

 3月25日午前11時46分 官房長官が記者会見し、20〜30キロ圏内の「屋内退避」の対象市町村に対し、住                   民の自主避難を要請したと発表


 
 12日、半径20キロ圏内の住民約2万人への避難指示があってから、南の小高地区の住民は中央の原町区、北の鹿島区に殺到した。集会所や公会堂に人があふれた。市は不安に駆られる市民の要請にこたえ、15日以降は70〜80台の避難バスを仕立てて市民を県内外に逃した。15日に屋内退避指示が出てからは、物流が滞り、極端な物資不足が続いた。

 市では、ガソリン不足を解消するため、タンクローリー7台の搬入を要請したが、業者は待避圏内には入れないというので、市内業者の運転手が郡山サービスエリアまで出向き、運転を引き継いで市内に持ち込んだ。16、17日は避難のために一人10リットルのガソリンを無償で配給した。しかし、外部からの物流が途絶えたために、コンビニやスーパーなども閉まり、食糧を買うのも困難だった。

 大手マスコミの記者は15日、一斉に退去し、新聞も配達されず、郵便配達もストップした。物資を積んだトラックは、30キロ圏内に入ることを敬遠していた。支援物資は、30キロ圏外にある市場を借りて受け入れた。7万1千人の人口は一時、約2万人まで減少した。

 連休の前後から、スーパーが開き始め、物資は次第に出回り始めた。放射線の情報が細かく提供されるようになり、市民は次第に戻るようになった。だが、政府は20〜30キロ圏内を「緊急時避難準備区域」に指定した際、それまでの屋内待避は解除したものの、「自主避難」についてどうするかについて、明確にはしなかった。

 「原子力災害対策本部」による5月17日付け文書による「緊急時避難準備区域」の定義は、このようになる。

 「4月22日には、一部の積算線量が高くなるおそれがある地域を計画的避難区域と設定する一方、20kmから30km圏内の地域のうち、計画的避難区域を除く区域に対しては屋内退避を解除することとした」

 「しかしながら、未だ安定していない事故の状況を踏まえ、緊急時において速やかに当該区域から避難あるいは屋内退避が可能となるよう準備を行う必要があると考えられる区域を『緊急時避難準備区域』と設定することとした」

 「緊急時避難準備区域においては、緊急時における屋内退避や避難が可能な準備を行うことを前提に、同区域内で、勤務等のやむを得ない用務等を行うことは妨げられない。一方で、緊急時における速やかな自力での避難が困難と考えられる子どもた高齢者、入院患者等については、引き続き、当該区域に入らないことが求められる」
 
 かんたんにいうと、こうなる。
 この地域では屋内退避を解除したが、緊急時には避難や屋内退避をする必要があるので、その準備をしておかねばならない。勤務などはしてかまわないが、自力避難が難しい子ども、高齢者、入院患者らは、この区域に入らないよう求められる。

 そのような前提で、学校は開かれず、特養は閉鎖され、病院は外来のみに限定する、という方針がとられているのだ。また、この地域で仮設代わりに民間住宅を借り上げることは認められるが、投資がむだになる恐れがあるため、仮設住宅の建設も認められない。

 市の人口71000人のうち、今は4万人が戻って住んでいると見られる。

 南相馬市議会の関場英雄事務局長(58)によると、5月15日に入力済み市外避難者は、県内外の627避難所に11431人。さらに親戚や知人宅に身を寄せたり、アパートを借りている人も17000人ほどにのぼる。だが、補足率はまだ8割程度でしかない。

 市では、福島市役所、新潟県庁、群馬県の温泉施設に出張所を設けたほか、主だった避難所に職員と、市立総合病院の看護師200人、小高区役所職員50人らを一ヵ月交代で派遣し、40人態勢で近くの小規模避難所も巡回している。

 「小高の警戒区域にいた市議は5人で、原町のアパートを借りたり、知人宅に身を寄せています。市議の8人は家に住めない状態です。この事務局には7人職員がいますが、家族そろっているのは1人だけ。あとは子どもたちが避難していたり、別々に暮らしています」

 関場さんは、避難や屋内退避について、「せいぜい数日、長くても1週間で解除になる」と考えていた。多くの市民もそう考えていたろうという。
 しかし、避難生活は、「緊急時避難準備区域」といういびつな形で長期化している。

 「3〜4万人はここで仕事をして、現実に住んでいる。そこで病院の入院もだめ、学校もだめ、ということになると、原発の不安以外に、生活の不安が募ってくる。今は仮設の要望が3000戸あるが、作っているのは900戸。30キロ圏外の鹿島の土地は限られており、原町にも建てたいが、緊急時避難準備区域なので、ゴーサインが出ない」

 もともと、「緊急時」に際して、政府はどれだけ地元優先でやってきたのか。
 原発のベント開始も汚染水の海への放出も、まず報道が先行し、最後に地元に伝わるという流れだった。
 
 「何カ月たったら戻れるとか、除染はどうするとか、住民はいつ戻れるのかについて、具体的な情報を求めています。医療や物流の支えがなければ暮らしは成り立たず、将来の見通しが立たなければ、企業の投資もない。復旧にはスピード感が必要です」




写真は上から

1 市役所屋上から見た南相馬市の中心部

2 南相馬市役所

3 市議会の関場英雄事務局長

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