2011年5月21日(土)記 南相馬市には、18日から21日まで、4日間滞在した。 そこで見聞きしたことは、想像をはるかに超えており、現実をつかむのは難しかった。 新聞やテレビ報道からは、その現実の異様さは、伝わってこないように思う。 何回かにわけ、何が起きているのかをご報告したいと思う。 福島第一原発周辺が、三層に区分けされていることは、前に記した。 1 警戒区域(半径20キロ圏内) 2 緊急時避難準備区域(おおむね半径20〜30キロ圏内) 3 計画的避難区域(30キロ圏外であっても、避難の対象になる地域) の三つである。 事態をわかりにくくしているのは、2の「緊急時避難準備区域」である。 1と3は、原則として立ち入りが禁止されている。 しかし、「緊急時避難準備区域」では、大勢の人々が生活している。 政府がこの3区域を設定した4月11日からしばらく、私は「緊急時避難準備区域」が、3の「計画的避難区域」の 外にあるものと誤解していた。ふつう、「計画的避難区域」の内側で、人々が暮らしを営むとは、考えにくいからだ。 しかし、実際には、数万人の規模の人々が、その20〜30キロ圏内で暮らしているのである。 その暮らしとはどのようなものか。 18日夕に訪ねた南相馬市の石神第一小学校で、まず頭が混乱した。 小学校の体育館には、依然として、104人の方々が、ダンボールの仕切りを立てた床で暮らしておられる。 他の被災地では、どこでも、新学期の始まりに合わせて、小中学校の避難所を他の施設に移し、統合していることが多い。児童・生徒の教育を優先させるためだ。 ところが、ここではまだ小学校が避難所になっている。 20〜30キロ圏内の「緊急時避難準備区域」では、小中学校を開校できないからだという。 「地域の子供たちは、毎朝、このグラウンドに集合し、30キロ圏外にある学校にバスで通っています」 ここで、また頭が混乱した。地域に住んでいる子供たちは、ふだんこの周辺で暮らしている。しかし、学校は 開いてはいけない、というのだ。 しかも、この避難所の人数は最近になって増えているという。 「いったんは避難している方が減ったのですが、その後、また増えて、今は104人いらっしゃいます」 お世話をする看護師の阿部英子(えいこ)さんがいう。 市からは、市立病院で働いていた看護師20人をこの避難所に派遣し、日勤3人、夜勤3人態勢で避難所を運営している。では、病院はどうしているのだろう。 「緊急時避難準備区域では、市立病院は外来を受け付けているだけです。入院は認められないので、業務は縮小しました」 この小学校にいるのは、20キロ圏内の「避難区域」に住み、当分は家に帰れない方が多いのだという。「緊急時避難準備区域」には、原則として仮設住宅を建てることができない。仕事場が市の中心部にある人たちは、こうした避難所を足場に、職場に通うのだという。 「緊急時避難準備区域」の複雑さだけは、どうにか呑みこめるようになった。後は、明日以降の取材でおいおい、 事態をつかむことにしよう。 南相馬市議の鈴木昌一さんの運転で、津波被害の大きかった原町火力発電所方面に向かう。ここは砂浜が続き、関東からも大勢のサーファーが来て賑わうキャンプ場だった。 遠くに見える火力発電所は、船から石炭を揚げるクレーン二基が、タツノオトシゴのように捻じ曲がり、近くのタンクが火災の跡をとどめていた。そこから沿岸部を走ると、破断した防潮堤のコンクリートが、ごろごろと転がり、見渡す限り、波にさらわれた土地が続いている。 400平方km近い市域のうち、実に1割にあたる40.8平方kmに津波が襲いかかり、5月17日時点で 死者 540人 行方不明 225人 家屋全壊 4682棟 大規模半壊 320棟 半壊 655棟 床下浸水 309棟 の被害を出した。 住家の跡は、かろうじて残ったコンクリートの礎石で、それと知れるだけだ。 見渡す限りの泥土の海に、真新しい棹が立てられ、コイノボリが6尾、勢いのある浜風に泳いでいた。 「お孫さんが亡くなったのかな」。鈴木さんは、目を潤ませてそのコイノボリに見入った。 「意地でも立てたかったんだろうなあ、このコイノボリ!」 夕闇に泳ぐコイノボリを、しばらく見つめた。 写真は上から 1 原町火力発電所の捻じ曲がったクレーン 2 火力発電所の周りは瓦礫に覆われた 3 ご案内してくださった鈴木昌一市議 |
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