2011年5月1日(日)記 4月28日、気仙沼商工会議所で、中小企業相談所長の高越士郎所長(57)にお目にかかった。 漁業の町気仙沼を、どうしたら再生できるか。その勘所について、お尋ねするためだった。 「がれき撤去は、道路確保が最優先で、店舗や住宅は勝手には手をつけられない。ご覧の通り、魚市場や鹿折、 階上(はしかみ)地区などは、水も電気もまだ通じていない。電気も避難所の回復が優先で、工場や造船所、魚市場にまで手が回らないのが現状です」 気仙沼は、もともと、漁港を中心に栄えた町だ。漁師たちにとっては、東日本でも、「あそこに入れば、何でも手に入る」という評判の、便利な港だったという。 造船所。鉄工修理。電機装備。無線の調整・修理。食糧や水など物資の仕入れ。エサの補給。水揚げすれば、冷凍施設、フカヒレ加工などの関連産業施設が集積しており、文字通り、九州・四国から北海道まで、漁師たちの頼みの綱だった。いかんせん、それら関連施設は、すべて海岸沿いにあり、大津波で激しい被害を受けた。 「復旧の見込みについては、想像できない。どんなに短くても5〜6年。場合によっては10年かかるのではないか」と、高超さんの見通しは厳しい。 気仙沼や石巻は、6月からの水揚げを目標に、漁港再生の途を探っている。その頃から、カツオ船が入港するからだ。いったん、他の漁港に向かえば、なかなか馴染みの気仙沼に戻ってこないのではないか。そんな懸念から、関係者は知恵をひねっている。加工産業では、残った建物を共同作業所にして、みんなで使うなどの案も出ている。だが、それも、電気・水道が戻っての話だ。 「今一番はっきりしてほしいのは、都市計画だ」と高越さんはいう。 すでに出ているように、今後は住宅などを高台に移し、海沿いの漁港や関連施設には、津波に備えた避難ビルを建てる。そのイメージは理解できる。 「しかし、みんなが知りたいのは、この場所でまた商売できるのか。ここにもう一度建物を造れるのか、という具体的な将来像なのです」 都市計画の「網かけ」がなければ、具体的な行動に移せない。こんな時期だから、一軒ずつ意見を聞いて調整することもできないだろう。県や市が素案と理由を提示して、少しでも早く復旧・復興に向けて動くしかない、と鷹越さんは思う。 「安全もさることながら、自分の暮らしてきた場所への愛着は強い。前の場所で商売し、生きていきたいというのが本音だろう。この一ヵ月、生きていくだけで、みんな精一杯だった。ようやく衣食住を確保し、これからは将来のことでみんな頭がいっぱいだ。雇用を確保するのは、民間ベースでは不可能に近い。このままでは、雇用を外に求めて市民が流出し、町が崩壊しかねない」 気仙沼駅前で、新聞販売店の広野昌紀さん(70)に話をうかがった。 海岸近くにあった店舗は津波浸水で使えなくなり、配達に使う車やバイク、自転車がすべて流された。 水が天井まで入ると、建物は浮き上がり、水が引くと、位置がずれたまま、着地する。そんなことも、今回初めて知った。 高台の駅前に仮店舗を移しての再出発だ。4月から少しずつ配達を再開し、20日ころにほぼ回復した。 「販売部数は震災前の3分の2。1000部ほどです。配達先が、それだけなくなってしまった」 魚市場を中心とした水産加工業の集積地が壊滅し、石巻に向かう国道の海岸沿いが流された。鹿折地区も、津波と火災の二重被災で廃墟のようになった。 広野さん自身、すぐ近くの市役所第二庁舎前のプレハブ建物に避難し、40数人の地元の人々と、暮らしてきた。 4月10日までは水道も使えず、庁舎裏にある沢の湧き水に頼った。プレハブは寒かったが、幸い石油ストーブがあり、その上で煮炊きできたのが支えになった。 「同じ町内の方々ばかりなので、和やかな雰囲気でした」 しかし、学校が始まるために、市は避難所を一部に集約させ、中小の避難所は閉鎖することにした。広野さんも「4月いっぱいが期限」といわれ、29日には退去するつもりだ。父親が残した家に移り、新聞販売店を続けるという。 写真は上から 1仮店舗で新聞販売店を続ける広野昌紀さん 2電気の復旧作業が続く。「がれきを除くので、ふだんの三倍の時間がかかる」と作業にあたる人がいう 3桜は満開だが、楽しむゆとりはまだない。がれきを撤去して、仮設住宅の敷地を確保する作業が続けられている |
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