2011年4月30日(土)記 4月26日の宮古の報告を、さらに続けたい。 市役所を訪ねた後、自転車で宮古署に向かった。市役所の藤田浩司さんから、 「宮古署も被災し、大変だった」と聞いたからだ。 宮古大橋を渡り、5分ほど行くと、辺りの景色が一変した。磯鶏(そけい)地区だ。 左手の高い堤防に沿って、道路はきれいに清掃されているものの、左右の道路わきに立ち並ぶ民家や 商店の壁には、赤いペンキで「解体OK」の文字が記されている。大津波でさらわれなかったものの、浸水で もう使えなくなった建物が多い。左手の堤防の上に立つと、破壊されたままの大きな工場や、押し流された 車、ヨットなどが、まだそのままだ。 満開の桜が咲いていたので、近寄って見ると、根元からへし折られた桜の樹だった。 大津波は自然の酷さや非情さを刻印したが、残されたいのちを精一杯に咲かせようとする桜には、自然の気高さ も感じる。それは、あまりにひどい仕打ちの後に届いた、あまりにささやかな慰藉にすぎないにしても。 宮古署は堤防のすぐ脇に建ち、防潮提をあっさり乗り越えた津波が、一階に浸水した。署の駐車場には、神奈川、 北海道、静岡などの都道府県警のパトカーや応援車両が並び、警察庁の手厚い支援態勢がうかがえる。 宮古署一階にあった交通課は、敷地のプレハブで仕事を続けている。 取材の事前予約はしていなかったが、通りかかった小野寺勝善副署長(52)が、ご親切に対応してくださった。 3.11当日は、周辺が浸水し、直後に庁舎も停電・断水状態になった。幸い自家発電装置は水をかぶらず、執務を続けることができた。4階の会議室に指揮所を設け、住民の避難誘導を指揮した。 固定、携帯電話が不通になり、頼りは警察無線だけだった。県警本部とも無線でのやりとりでしのぐことになった。 110番は、盛岡の県警本部が集中統御しており、そこから、宮古署に無線で連絡する、という方法だ。 一方、119番は不通になった。宮古署では、連絡要員として署員を市役所、消防署に送り、無線リレーで救急要請、消火要請に対応することにした。110番通報や、管内で巡回するパトカーから要請があれば、本部から市役所、消防に無線で通報する、という方法だったという。 約100人の署員のうち、お1人が殉死、お1人が行方不明。官舎が被災した署員が6世帯、駐在や交番など職住を 共にしている署員を合わせると、10人以上が住まいを失った。若い署員は、別の署員の家に同居するなどして、警察活動を維持してきた。もちろん、職務上、ご家族のもとに帰ったり、安否確認をするよりも、職務を優先せざるをえず、不眠不休が一週間以上続いたのだという。 全国組織である警察は、消防や自衛隊と並んで応援態勢がとりやすく、救助や遺体捜索、巡回、避難所警戒、交通整理などに、今も数百人規模の他県警応援が続いている。 「まだ平常に戻るまでには数ヶ月かかるのではないか」と、小野寺副署長は見積もっている。 「想定外といえば、金庫でした」。署の倉庫に並ぶ数十の金庫について尋ねると、そんな答えが返ってきた。津波の後、波にさらわれた金庫が次々に発見され、署に遺失物として届けられたのだという。その数、ピーク時には約700個。持ち主が確認されれば、順次返還するが、まだ確認をとれない金庫も百個単位で残っている。金庫であれば、貴重品とわかってすぐに遺失物として届けられるが、個人にとって重要な思い出の品々やアルバムなどは、どれほどの数が喪われつつあるのか。重い現実に、まさに言葉を失ってしまう。 小野寺副署長にお礼をいい、また自転車で海岸沿いを自転車で走って中心部に戻る。道路確保優先のため、道路はがれきが片付けられたが、工場や個人の建物は手付かずで、これから解体を待つケースが多い。「復旧・復興」どころか、まだスタート地点にすら立っていないのが現状だと思う。 愛宕小学校にある避難所に向かって長い坂をあがった。 北海道自治労の応援を受けて管理にあたる宮古市教育委員会事務局総務課の主査、舘崎正さん(47)に話を聞いた。 舘崎さんは、内陸部の茂市の教育委員会で震災に遭い、すぐにその日から炊き出しをして、被災の激しい地区への支援態勢に入った。津波にさらわれなかった公用車を閉伊街道沿いの後背地にあたる新里、川井などに集め、 被災しなかった水道事業所を食糧配給基地にして、避難所に配った。 これは市役所の藤田さんにうかがった話だが、宮古は平成の大合併で田老町、新里村、川井村と合併し、岩手きっての広域自治体になった。今回は、新里、川井が被災しておらず、その日から物資供給の基地となった。その点では、今回の宮古の場合、「平成の大合併」がプラスになったといえそうだ。 舘崎さんに話を戻そう。自治体公務員の例に漏れず、舘崎さんも沿岸部に勤める奥さんと連絡がとれず、不眠不休で働いてきた。奥さんは徒歩で帰宅し、2日たってようやく安全が確認できたという。 愛宕小に避難している方々は、かなり減って現在109人。愛宕地区の方々が多い。他の避難所に駐屯する自衛隊が朝晩に炊き出しをして、その温かな食事が届けられる。避難所にいないご近所の方々も含め、配食数は170。 昼は、生協から弁当が届けられる。 支援物資は、当初は市職員が届けていただが、今は「避難所連絡票」に書き込んで宅急便業者に渡すと、業者が市の本部に行って物資を受け取り、翌日に配送するシステムが作られている。愛宕小の場合も、個別に届けられた救援物資を含め、ラーメンやカップ麺、缶詰などの食品は山積みで、ほぼ足りている状態まで落ち着いた。 札幌医大のチームが毎日往診し、横須賀の保健師チームが巡回で健康指導をしている。琉球大病院からボランティア医師が「心のケア」をし、宮古第一病院からのボランティアがリハビリ指導をするなど、医療態勢もほぼ整った。 「この避難所は、コミュニティがしっかりしており、4班の班長が、必要があれば代表者会議を開いて問題に対処しています。当初は私たち市の職員も2日勤務で1日は泊まる態勢でしたが、今は落ち着いてきたので、一日交代で、 他の仕事もするようになりました。自治労や札幌市などからも応援が来て、今は日中は3人、泊まりは2人態勢をとっています」 愛宕小も、この日が入学式。校庭には、子どもの日にあわせ、鯉のぼりが泳いでいた。 舘崎さんはいう。 「ようやく、モノは足りてきた。今は、現金収入をどうするか、仮設住宅にいつ入れるのかが気になっておられる時期です。激しい被害にあった田老のようなところで、元の場所に住みたいと思われるのかどうか。今後のことが心配という人が増えています」 写真は上から、 1磯鶏地区の堤防近くに集められた被災車両 2折れた枝に咲く桜の花 3磯鶏地区に流されたヨットもそのままだ 4残った建物にも「解体可」の文字が書かれていた 5愛宕小を見守る舘崎さん(左)と応援の北海道自治労のメンバー |
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