外岡秀俊 3.11後の世界

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  作成日時 : 2011/04/27 21:54   >>

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2011年4月27日(水)記

 いつの世にも、間の悪い人がいる。

 とりわけ、出処進退に、その癖が出る。

 だが、自分がこれほど「間の悪い男」であるとは思わなかった。

 早期退職に応じて、長年勤めた新聞社に退社手続きをとったのが2月18日。その後、郷里への引越しや航空券購入、住民票の移転などの手続きを済ませ、すべて準備が終わったところに、東日本大震災が起きた。

 1995年の阪神大震災で長期取材したことがあり、震災には多少の土地鑑があった。自分の持ち場を離れ、3月
18日から25日まで、被災地を回っていくつかの原稿を書かせていただいた。その最後の原稿の締め切りが退社日だった。

 その日から、郷里に戻り、しばらくは手続きに追われた。ホームにいる父、年々心細さを募らせる母。長い間郷里を離れていたので、せめて、残る日々を少しでも一緒に過ごしたい。それは、両親のためというより、あとで悔恨したくないという、自分のための選択だった。しばらくは予定通り、毎日買出しをして、母に手料理をふるまった。

 そのうち、老いた母がいった。
 「こんなところにいて、いいのかい。いつ、東北に行くの?」

 母親だけに、息子の生来の「間の悪さ」は見抜いていたようだ。

 「こんなことなら、なぜ」
 早期退職を、そう悔やまなかった、といえばウソになる。けれど、こうも考えた。
 組織にいれば、取材の便宜は図られるものの、別の制約がある。他の仕事や、組織人なりの振る舞いも必要になるだろう。そうした一切のしがらみから解き放たれ、一個人として「単独行」を試みることを、だれかが自分に命じたのではないだろうか、と。

  行動は限られる。これまでのように、迅速に動き回って速報することなど思いもよらない。しかし時間だけはたっぷりある。これまでのスピードでは見えなかった人々の遅々として進まない日々の思いに目をこらして、もし許されるなら、人々と一緒に泣き、一緒に笑うことができるかもしれない。そう覚悟を決めて、25日、青森から盛岡に南下した。


 26日、盛岡駅前発のバスに乗り、国道106号、通称閉伊街道を東に向かった。

 寒かった北国にもようやく遅い春が訪れた。築川の清流に沿った土手には、黒土をむっくり盛り上げて、無数の黄緑のフキノトウが顔をのぞかせていた。遠くに望む早池峰山は、まだ白い雪に覆われ、北上山脈を横切る区堺(くざかい)峠には、路傍に斑模様の雪が残っている。

 だが峠を下って宮古に近づくころになると、新芽が萌えて木々がうっすらと淡い緑色に染まり、あちこちで桜が咲き初めているのが見えた。零れ落ちるような連翹の黄色、紅白の梅の花。閉伊川沿いの眺めは、これまでモノトーンだった被災地に、ようやく明るい彩りが混じってきたかのような錯覚を与えた。

 宮古駅前に着き、はたと困った。一ヵ月前に訪れたときに、おおよその地理はつかんだが、徒歩で動くには広すぎる。タクシーでは待ってもらうことができないし、一度放すと、もうつかまらない。バスも、運転は間遠だろう。もしやと思い、駅前の観光案内所でレンタ・サイクルがあるかどうかを尋ねると、お嬢さんがどこかに電話をかけて、「駅前派出所なら、いま、一台あります」と教えてくれた。派出所がレンタ・サイクル?

 半信半疑で5分ほど歩くと、おまわりさんが、「あ、さっき問い合わせた人ね。この書類に住所と連絡先を書いて」と、てきぱき手続きを進めてくださった。車体を黄色いペンキで塗られた自転車は、さすがあちこちが軋んでいるが、
移動手段としては申し分ない。お礼をいって、さっそく市役所に向かった。

 閉伊川沿いにある宮古市役所は、3月11日の大津波で二階床まで浸水し、全館が停電になった。非常用発電機は一階にあったため浸水で使えなくなり、300人近い職員と役所にいた市民が、朝に水が引くまで一晩、暗闇の中で閉じこもるしかなかった。

 「地震が起きた時には、まだ防災行政無線がいきていたため、津波から避難するよう市民に呼びかけることはできた。しかし、津波浸水で、それ以降、情報が途絶えた」

 当時庁舎にいた市企画課の広報担当、藤田浩司さん(50)はそう振り返る。

 藤田さんは4階ベランダから閉伊川を見ていたが、川の水はいったん引いて、半分ほど川底が見え、やがてどっと、水が押し寄せてきたという。電話はもちろん、携帯も使えなくなり、13日の朝にいったんご帰宅するまで、ご両親や奥さん、娘さんの安否はつかめなかった。

 とりわけ心配だったのは、高校生の娘さんだった。地震の30分前に、車で磯鶏(そけい)の海沿いを走ったときに、ヨットの白帆が三つ、風を孕んで海を滑っているのを見た。ヨット部に所属する娘さんが、今日も練習しているのか、と思ったばかりの時に、津波が来た。

 幸い、娘さんは無事だった。津波を知ったヨット部の先生がすぐに部員に帰るように呼びかけ、待避して難を逃れた。


 3月1日現在で人口60124人、24332世帯だった宮古市の被害は、

    4月25日現在   死者          406人
                負傷者          33人
                行方不明        534人
                全半壊家屋      4675棟      であるという。

  当初は1000人近くが行方不明と見られた。しかしこれは、役所も被災して混乱期に住民台帳が取り出せなかったため、おおよその地域人口ー避難者数ー地域以外で確認された数、という概算で割り出したからだ。今後は不明者がさらに少なくなる可能性もある。不明者が少なくなるのは、不幸中の幸いだが、それでも、被害の大きさそのものに、なんら変わりはない。

  いま避難所におられる方は 市内21か所
                     1946人   だという。

  これまで、市営住宅や雇用促進住宅に70世帯が入居し、仮設住宅も948戸に着手した。4月27日に最初の仮設が完成するのをはじめ、5月中旬から、順次、完工していく。入居は抽選だが、比較的地域に近いところに建てられるため、阪神大震災のときのように、避難所から仮設、仮設から恒久住宅へという二度の節目で、せっかくできたコミュニティが再度にわたって壊されるという理不尽さが繰り返される恐れは、今のところまだ少ない。

 しかし、津波震災はほかの震災とは違い、着のみ着のままで逃げた方が、住居ごと一切合財を喪うという過酷な運命にさらされている。文字通り、一切がないのだ。

 市では、仮設に入居する方々に
      〇電化製品 テレビ、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、炊飯器など
      〇衛生用品 シャンプー、せっけん、歯磨き粉など
      〇台所用品 やかん、両手鍋、フライパン、包丁など
      〇掃除洗濯用品 ほうき、ちりとり、洗剤など
      〇救急用品 ばんそうこう、爪切り、体温計など
      〇その他 時計、座卓、文房具など

      を世帯別に無料支給する。ほかに、寝具、食器、衣料品なども人数分支給するという。

 しかし、これからの光熱水費は支払わねばならない。
 今のところ、義捐金は、
       亡くなった方のご遺族に  50万円
       お住まいの全壊した方に  50万円 
              半壊した方に  25万円だ。

 ようやくスタート地点に立てる最小限の品々と、額でしかない。この先、どうやったら、収入を確保できるのか。
 自宅とともに、職場も流された人々が多い。主に港を中心に、海産加工や関連の産業で成り立ってきた町である。 がれきの撤去や清掃などで、被災した方々の仕事を確保するという案も出ているが、それは一時のことにすぎない。どうやって、町を再興し、仕事先を確保するのか。それが、もっとも大きな問題となって立ちふさがっている。

   (宮古の項続く) 

写真は上から    藤田浩司さん
    中       浸水したため、今も一階が使えない宮古市役所
    下       役所のすぐ近くに、まだ流された家々が残されている

   

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